作品タイトル不明
黒犬の会合、左京との対峙3
『マスター! HPが危険域に近づいています! このまま五分間耐え切るのは不可能です!』
エク子の悲鳴のような声が響く。
(……くそっ。このままじゃ、本当に負ける……!)
視界が明滅し、意識が遠のきかける。
ステータスに頼っていたツケが回ってきたのか。
デバフとスリップダメージという、RPGでも厄介な絡め手の前に、俺の身体は徐々に機能を停止しようとしていた。
このまま防戦一方で五分間を耐え凌ぐなど不可能だ。ジリ貧になって殺される。
『――マスター。落ち着いてください。呼吸を整え、ノイズを遮断するのです』
その時。
絶望の淵に沈みかけた俺の脳内に、澄み切ったトラ子の声が響いた。
『千の苦痛は、あくまで脳への偽の 信号(ハッキング) に過ぎません。
肉体が致命的に破壊されているわけではないのです。
マスターは今まで、もっと悍ましい痛みと恐怖を乗り越えてきたはずです』
トラ子の言葉に、俺の脳裏にフラッシュバックする記憶。
蒼竜との戦いや黒曜の森での、死の恐怖。
それに比べれば――。
(……ああ、そうか。こんなチクチクした痛み、あの日感じた絶望に比べたら、虫刺されみたいなもんじゃないか)
俺の心の中で、グラグラと揺れていた軸が、ピタリと定まった。
『敵の攻撃パターンを解析完了しました』
トラ子が、俺の網膜に直接、光の軌跡を描き出す。
『左京玄弥は、自身が発動しているスリップダメージのタイミングに合わせて、マスターの反応が遅れる瞬間を狙って攻撃を仕掛けています。
……逆に言えば、彼はその『タイミング』に依存しすぎています』
「……なるほど。痛みに怯むフリをして、カウンターを合わせればいいんだな」
『その通りです。次の幻肢痛のピークまで、あと3、2、1――』
脳を焼くような激痛が全身を駆け抜けた瞬間。
俺はわざと大きくよろけ、顔を歪めて無防備に胸元を晒した。
「隙だらけだァ! これで終わりだ結城!!」
玄弥が勝利を確信し、全魔力を込めた右拳を俺の心臓に向けて突き出してくる。
だが、俺の目は、ブレる視界の中でも、はっきりとその軌道を捉えていた。
「……捕まえたぞ、左京」
「――なっ!?」
俺は、心臓へ迫る玄弥の右腕を、左手でガシッと掴み取った。
スリップダメージの激痛など、もはや気にも留めない。
か戦闘経験の差が、ここに来て明確な 生存本能(センス) として爆発した。
「ば、馬鹿な! なぜ動ける!?」
「痛みなんて、気合いで無視すればいいだけのことだろ」
驚愕で目を見開く玄弥の顔面に向かって、俺は渾身の力を込めた『頭突き』を叩き込んだ。
ゴチャァッ!
「アギァアアアアアッ!?」
鼻骨が砕ける鈍い音と共に、玄弥が絶叫を上げる。
俺は掴んだ右腕を離さず、そのまま奴の身体を引き寄せ、がら空きになった腹部へと、怒涛の膝蹴りを三発、四発と連続で叩き込んだ。
「ガハッ、ゲェッ……!?」
玄弥の口から、おびただしい量の血と胃液が吐き出される。
デバフで低下しているとはいえ、俺のステータスは高い。
急所への的確な打撃は、強化された玄弥の肉体を確実に破壊していく。
「これで、終わりだッ!!」
俺は玄弥の胸ぐらを掴み上げ、最後の一撃として、全身のバネを使った右アッパーを奴の顎にクリーンヒットさせた。
ドゴォォォォンッ!!
玄弥の身体が宙に浮き、数メートル後方へと錐揉み回転しながら吹き飛んでいく。
奴は庭園の灯籠を粉砕し、池の縁にドサリと落ちて、ピクリとも動かなくなった。
「ハァッ……ハァッ……っ」
俺は荒い息を吐きながら、血に染まった拳を下ろした。
『マスター、敵の生体反応が著しく低下! 戦闘不能状態を確認しました!』
「……終わったな」
俺が玄弥へと歩み寄ろうとした、その時だった。
「……が、ぁ……ぐ……」
池の縁で倒れていた玄弥が、ビクン、ビクンと痙攣するように動いた。
奴の顔面は血まみれで、顎も外れ、すでに意識は混濁しているはずだ。
それでも、奴はゾンビのように這いつくばりながら、血に染まった手を懐へと伸ばしていた。
「……まだ、だ……俺は、負けん……親父の、前で……」
玄弥の瞳には、もはや理性は残っていなかった。
あるのはただ、敗北への恐怖と、スロースから植え付けられた狂気的な執念だけだ。
玄弥の震える手が、懐から一本の小さな小瓶を取り出した。
その中には、ドロドロとした不気味な紫色の液体が、生き物のように脈打ちながら輝いている。
『――もし君が、死にそうになるくらいピンチになったら、これを飲みなよ。君の寿命と引き換えに、面白いモノが見れるからさ』
スロースの怠惰な声が、玄弥の壊れかけた脳内に反響していた。
「やめろ、左京! それ以上はやめろ!!」
背後から、宗一郎の悲痛な叫び声が響く。
だが、玄弥の耳にはもう何も届いていなかった。
奴は小瓶のコルクを歯で食いちぎり、その紫色の液体――裏社会でも最悪の禁忌とされる『 違法魔法薬(ブースト・ドラッグ) 』を、一気に喉の奥へと流し込んだ。
「ガ、アアアアアアアアアアアッ!!!!!」
直後、玄弥の身体が異様な形に膨張し始めた。
スーツが弾け飛び、皮膚の下で血管が黒く浮き上がり、筋肉が異常なまでに肥大化していく。
それはもはや人間の姿ではなかった。
怠惰の魔力と違法薬物が混ざり合い、強引に肉体を作り変えようとしているのだ。
『マスター! 敵の魔力波長が先ほどの数倍に膨れ上がっています! 肉体の限界を超えた強制ブーストです!』
「……クソッ、往生際が悪いヤツだ!」
俺は再び拳を固く握りしめ、異形の化け物へと成り果てようとしている左京玄弥と対峙した。
断絶の庭での戦いは、最も凄惨で、最も狂気に満ちた最終局面へと突入しようとしていた。