作品タイトル不明
閑話 怠惰なる支配1
それは、結城誠という一人の事務員が、『黒犬』という組織から理不尽に追放されてから、まだ少ししか経っていない頃の出来事だった。
裏社会の巨大シンジケート『黒犬』の幹部であり、ボスである柊宗一郎の隠し子でもある 左京玄弥(さきょう げんや) は、薄暗い執務室で一人、苛立ちに身を任せて分厚い報告書をデスクに叩きつけた。
「……クソッ。どいつもこいつも無能ばかりだ。あの男の足取り一つ、まともに追えんとはな」
玄弥の頭の中には、つい先日組織から姿を消した男――結城誠のことがこびりついて離れなかった。
表向きは、長男である龍牙が起こした『まどか拉致事件』の不手際の責任を被り、親父である宗一郎の逆鱗に触れて追放された、哀れな下っ端。
もちろん裏で糸を引いていたのは左京だったが。
だが、玄弥だけは違った。
彼だけは、結城誠という男が裏ルートに流していたドロップアイテムに目を付けていたのだ。
短期間で、信じられないほどの高ランク素材を一人で持ち込んでくる異常性。
あの男には、間違いなく何か秘密がある。底知れない『力』を隠し持っている。
妾の子であるというコンプレックスを抱え、常に正妻の子である龍牙や、絶対的なトップである親父を越えたいと渇望していた玄弥にとって、結城の持つ未知の力は喉から手が出るほど欲しい『ジョーカー』になり得たはずだった。
しかし、結城は追放された。
黒犬の庇護を離れ、表の世界に紛れ込んだ彼を、これ以上深く調査することは今の玄弥の権限では難しかった。
親父の目を盗んで動くにはリスクが高すぎる。
「力が……圧倒的な力が足りない。俺がこの組織を完全に掌握し、親父に『俺こそが後継者にふさわしい』と認めさせるためには、常識を覆すほどの力が……ッ」
玄弥がギリッと奥歯を噛み締めた、その時だった。
『――ふぁあ。……そんなに力が欲しいなら、僕が少しばかり融通してあげようか?』
「……ッ!?」
玄弥は弾かれたように顔を上げ、腰のホルスターから銃を抜き放った。
ここは玄弥の派閥が管理するアジトの最深部。扉の前には完全武装の部下を立たせ、窓には防弾ガラスと魔力感知の結界を張っている。
ハエ一匹すら絶対に入り込めないはずの空間だ。
だが、玄弥の目の前――来客用の高級ソファに、いつの間にか一人の男が深く腰掛けていた。
「誰だ、貴様……! どこから入った!」
玄弥が銃口を突きつけても、男は全く動じなかった。
だらしない、サイズの合っていないぶかぶかのコートを着込み、目元が隠れるほど前髪を伸ばした男。
その全身からは、周囲の空気を泥のように重くする、異様な『気怠さ』が漂っていた。
『あー……そんな物騒なもの向けないでよ。
避けるのも面倒くさい……。僕の名前?
……ふぁあ、そんなのどうでもいいけど。
そうだな、スロース……とでも呼んでくれ』
スロースと名乗った男は、大きな欠伸をしながら怠そうに答えた。
「ふざけるな。三秒数える間に目的を言え。言わなければその頭を吹き飛ばす」
『……気が短いなぁ。用件は一つだけだよ。
君たちの持っている、この黒犬の【販売ルート】……インフラを、僕たちに貸してくれないかなって思ってさ』
「……ルートを貸せだと?」
『そうそう、表に出せない怪しい素材とか、人間とかをね、安全に流通させるためのパイプが欲しいんだ。
もちろん、ただとは言わない。
見返りは……君が今、喉から手が出るほど欲しがっている【力】だ。君の組織拡大のため、そして……偉大な『親父』殿に認めてもらうためにも、悪くない話だろ?』
玄弥の瞳が、僅かに揺れた。
本来なら、こんな得体の知れない侵入者の戯言など、一秒たりとも話を聞かずに始末するか、捕らえて拷問にかけるのが裏社会の鉄則だ。
だが、なぜだろうか。玄弥は、引き金を引くことができなかった。
男の声を聞いていると、脳の奥が痺れるような奇妙な感覚に陥り、警戒心が急速に溶けていくのを感じたのだ。
「……条件を聞こう」
気づけば、玄弥は銃を下ろし、男の提案に耳を傾けてしまっていた。
『ふふっ。話が早くて助かるよ……。
条件は簡単さ。君たちが僕らの荷物を流すたびに、僕から君たちへ、常人では決して辿り着けないレベルのステータス上昇と、特別なスキルを付与してあげる。
君だけじゃない、君の部下たちにもね』
男が提示した内容は、明らかにこちらに利がある、圧倒的に美味しい話だった。
裏社会のルートを貸すだけで、手駒の戦力が飛躍的に上がり、自分自身も強くなれる。
(……怪しすぎる。だが、もしこれが本当なら……)
玄弥の脳裏に、冷徹な父親の顔と、自分を見下す龍牙の顔が浮かんだ。
自分は長男ではない。
だからこそ、誰よりも結果を出さなければ組織のトップには立てない。
組織をさらに巨大化させ、親父に俺の有用性を証明するためには、この怪しい取引に乗るだけの価値があるのではないか。
野心と焦りが、玄弥の冷静な判断力を狂わせていく。
「……半信半疑だな。言葉だけなら何とでも言える。その『力』とやらが本物だという証拠はあるのか?」
『あー、やっぱりそうなるよね。めんどくさいなぁ……』
スロースはボリボリと頭を掻きながら、ゆっくりとソファから立ち上がった。
『まあいいや。まずは僕から誠意を見せないといけないね。……ほら、動かないでね』
スロースが、気怠げな足取りで玄弥の目の前まで歩み寄り、その手で玄弥の肩にポンッと軽く触れた。