作品タイトル不明
8.
「親の目を盗んで!」
「ハハッ、まさかそんな愚かな真似はいたしませんよ。都度、訪問のための手紙を当主宛に送っておりました。まあ、なぜかいつも返信は当主代理である奥様からでしたが」
それはそうでございましょう。旦那様は屋敷にはいらっしゃらないのですから、返信の仕様もありません。
旦那様が言葉を重ねれば重ねるほど、己の醜態が浮き彫りになっていく。その逃げ場のない事実に、苛立ちを隠せないようです。
一瞬、声を荒げようとしたのでしょうか。大きく口を開け、──慌てて伯爵夫妻を振り返り、言葉を呑み込まれました。
叫ぶ前に気づいただけまだよかった。そう思うべきなのでしょうか?
「子爵様はなぜランディ様の行動を気になさるのです?」
お嬢様が、さも不思議そうに小首を傾げ問いかけました。
「な、なぜだと……⁉ 私はこの屋敷の主で、お前の父親だ! 父親が娘の心配をして何が──」
「まあ。そんなことを言うだなんて、どうなさったの? もしや、昨夜のおままごとがとても気に入ってしまわれたのかしら」
くすくすと、愛らしい笑い声を響かせながら、お嬢様が楽しげに笑いました。
「でも困りました。私ももう十五歳でしょう? いつまでも 雛遊(ひいなあそ) びに興じていてはいけないと思うのです。──子爵様はどうお考えになりますか?」
旦那様との関わりはどこまでも戯れに過ぎない。そう告げるお嬢様の言葉に、旦那様は完全に顔色を失われました。
ですが、これが現実です。
旦那様は愛人との家庭だけを守り、慈しむ暮らしを……、お嬢様がお生まれになるずっと前から続けてきたのですから。
「……すまん。……本当にすまない、シャーロット」
旦那様からの謝罪の言葉に、お嬢様はいっそあどけないほど無垢な表情で首を傾げ、ほうっと軽く息を吐き出すだけでした。
「大変失礼いたしました。このように玄関先で長話をするなど不調法な私をお許しくださいませ」
お嬢様は伯爵夫妻に向け、頭を下げると、
「どうぞ、お母様にお会いになってください」
そう言って、二階への案内を指示したのです。
「シャーロット嬢」
ランディ様がお嬢様の名を呼ぶと、お嬢様は自然な様子で彼の手を取りました。
その慣れた仕草は、まだ十六歳と十五歳という大人にはなりきれていない容姿には見合わぬ、まるで長い年月を連れ添った 番(つがい) のようです。
旦那様が悔しそうに、でも、二人を引き離すこともできずに、その重い足を踏み出されました。
部屋に入ると、伯爵夫妻は奥様の眠る寝台へと駆け寄られました。
「クリスティアナ……」
「こんなにもやつれてしまって……。ああ、だからもっと早くに離縁しなさいと言ったのに……っ!」
先程までは威厳を保っていらしたご夫妻も、冷たくなった我が子のお姿を前に、崩れ落ちるように涙を流されました。
奥様の病がわかったのは半年前。
それからの闘病生活は決して穏やかとは言えないものでした。
激しい身体の痛み、容赦のない発熱や吐き気。あらゆる症状が、日ごとに奥様を追い詰めていったのです。
だからこそ、旦那様はこの屋敷から逃げ出したのでしょう。……いえ、これは私の憶測にすぎません。どちらにしても、旦那様は奥様のそばにはいなかった。ただ、それだけのことでした。
「お祖母様、そんなにもお嘆きにならないでくださいませ。……だって、お母様はそれでも幸せそうでしたわ」
咽び泣く夫人のそばにそっと寄り添い、震える背中をなだめながら、お嬢様がささやきました。
「……幸せだなんて……、そんなはずあるわけないでしょう……っ!」
愛娘の過酷な最期を想うお祖母様の、悲痛な叫びが部屋に響きました。
伯爵は悲しみに震える妻の肩を抱き寄せ、静かに、けれど有無を言わせぬ重みのある声で遮りました。
「やめなさい。救えなかった悲しみを抱いているのは皆同じ……いや。 家族なら(・・・・) 当然のことだ」
伯爵はその目に涙を浮かべながらも、冷えきった眼差しで旦那様を見据えました。
涙を流すことすらなかった者など、もはや家族とは呼ばない。伯爵が暗にそうおっしゃっているのだと、その場の誰もが理解しました。
「……ありがとうございます、お祖父様。ですが、嘘偽りなく、母は本当に幸せそうでしたよ?」
お嬢様はおもむろに立ち上がると、奥様の告解を諳んじられました。
最後まで夫を愛し、愛するがゆえに自分の痕跡を消し去るという狂気ともいえるその行動──。
そのすべてを余すことなく語られたのです。
「すごいですよね。これまではずうっと愛されることを待つばかりでしたのに」
旦那様を見つめ、『あなたもそうお思いでしょう?』と言わんばかりに微笑みかけるお嬢様の姿は、まるで可愛らしいいたずらが成功したかのように、いっそ無邪気にすら見えました。
「……待ってくれ、シャーロット。……その、今のは本当にクリスティアナの告解なのか? あの子の最期の言葉は……本当にそんなにも救いのないものだったのか?」
伯爵の瞳から、とうとう堪えきれなくなった涙が溢れ落ちました。
自分の最愛の娘が、死の間際に願ったものが、愛という名の呪いであったことに──それを、大切な孫娘に託した罪の重さに耐えきれなかったのかもしれません。
そんな伯爵の姿を目にして、お嬢様の表情がほんの少しだけ歪みました。
笑っているのに、どこか泣いているような痛みを湛えた儚い微笑。
「……君は知っていたのか」
伯爵の低く、怒りの滲む問いかけが旦那様に突き刺さります。
「あ、……その、つい先程、司祭様の前で娘が代読したのを聞いて、初めて……」
旦那様は伯爵の気迫に怯えながらも、ここで偽りを述べることはさすがに憚られたらしく、訥々と真実を口にしました。
──その瞬間でした。
言葉の終わりを待つことすらなく、伯爵の拳が、旦那様の頬を容赦なく撃ち抜いたのです。