作品タイトル不明
あなたの野望はなんですか
「あなたと、たっぷり話したい」
その声が、まだ耳の奥に残っていた。
「ニッキー、まずは私がガブリエルの相手よ」
カトリーヌ夫人が、グラスを持ったまま割って入った。
「おっと失礼」
ニッキーが一歩引いて、軽く頭を下げた。
「では、後ほど」
踵を返し、人の波に消えていく。その背中を、私はなんとなく目で追った。
「いい男でしょ?」
カトリーヌ夫人が、隣でそっと言った。
「!」
「は、はい」
「あなたと彼を会わせたくて、招待したのよ」
「え、そうだったんですか!?」
「あなたにどうしても成功して欲しくて」
夫人の声には、計算がない。ただ、温かい。
「でも、まさかあなた方が既に取引していたとは……」
「信じられない偶然が重なった結果です」
給仕が近づき、ワイングラスを二人の前に差し出した。夫人がそっと受け取る。私も手を伸ばす。
「偶然が重なった結果?」
「はい」
夫人がグラスを持ち上げ、微笑んだ。
「それは偶然じゃないわね」
静かに、確かめるように言った。
「運命よ」
グラスが、かすかな音を立てた。
壁際に並び、踊る人々を眺めながら、夫人が続けた。
「この国ベルリア王国は、未だ貴族が支配する封建社会よ」
ドレスの裾が床を滑り、音楽が続いている。
「そして貴族社会は男性上位。爵位は男にだけ与えられて、女は離縁されたらそれまで」
「……はい」
「もし貴方が商売で成り上がりたいならば、男性の力がどうしたって必要なの」
夫人がグラスを傾け、また口を開いた。
「ニッキーはアルビオン共和国出身。あそこは随分前に革命が成功して、身分社会は無くなった。貴方とも考えが合うと思うの」
人波の向こうから、ニッキーの姿が近づいてくるのが見えた。夫人が私を横目に見る。
「貴方が良ければ、縁談を取り持つわ」
私は少し、息を止めた。
「奥様……」
カトリーヌ夫人には、どれほどの恩があるかわからない。
試しに作った帽子を気に入って買ってくださり、ご自身の人脈を惜しみなく紹介し続けてくれる。夫人の夫である伯爵は大変な資産を持っているが、とても高齢で気難しく、嫁いだばかりの頃は大変な苦労をしたと聞く。今は身体を悪くして床に伏しており、領地の運営は息子夫婦に任せているそうだ。皮肉なことにそれがきっかけで、夫人はようやく自由になれたのだという。
「奥様には、どれほどの恩があるか分かりません」
夫人が嬉しそうに目を細めた。
「ですが……」
「え?」
私は夫人を見た。
「私は今、離縁したばかりです。しばらくは一人で頑張りたいと思います」
夫人は黙って聞いていた。
「離縁された女が、この国でどれほどのことをやれるのか、試してみたいのです」
しばらく間があった。夫人がゆっくり微笑んだ。
「わかったわ。これからも精一杯応援するわね」
「感謝しております」
ニッキーが近づく気配がした。夫人が私の耳元に顔を寄せた。
「でも、恋愛は別でしょ? 好きになってしまったら、どうなってしまうかしら?」
「!」
「お、奥様!」
夫人は笑いながら、するりとその場を離れていった。デフォルメしたように軽い足取りで、人波の中に消える。
「では、ガブリエルさん」
振り返ると、ニッキーが手を差し出していた。
「まずは私と一曲、お願いします」
「は、はい」
手を取る。掌に、温かさが届いた。
──もう!
人々の輪の中へ、二人で向かう。
──奥様が変なことを言うから、意識してしまうじゃない!
◇ ◇ ◇
大勢の男女が向かい合い、片手を握り合っていた。
バイオリンの音が天井に上り、床に降りてくる。私とニッキーも、その輪の中に入った。
踊り始める。手が繋がれ、距離が開き、また近づく。
「あなたに聞きたいことがあります」
ニッキーが言った。
「はい」
「……あなたの野望はなんですか?」
手が絡まり、一瞬だけ距離が縮まる。
「野望……ですか?」
「ええ。あなたがなんとしても成し遂げたいことと、言い換えてもいい」
両手を取り合い、くるりと回る。
──こんな時まで仕事の話か……。
しかも夫人との話と同じ問いだ。男性に向かって同じように答えるのも、どうなのかしら。
ニッキーの目を、少し見た。
真剣な目だった。燃えているというより、静かに輝いている。内側に何かを持っている人の目だと思った。
──この人こそ、内なる野心が漏れ光っているみたい。
私は少し考えてから、口を開いた。
「私が大切にしているもの……仲間、誇り、理想……」
手が離れ、また繋がる。
「それらを守るために、必死なだけです」
ニッキーは黙っていた。踊りの輪が動き、音楽が続く。
「……では、僕にそれを守るお手伝いをさせてください」
「!?」
「単刀直入に言いましょう」
ニッキーの目が、私を真正面から見た。
「あなたのガブリエル商会を……買わせていただけませんか?」
音楽が、遠くなった気がした。
「は?」
自分の声が、ひどく間抜けに聞こえた。