作品タイトル不明
私は自分の力で立ちたいのです
──え、この人、私の商会を買いたいと言った?
頭の中で、言葉が二周した。
離縁の際、ジャックには店舗を渡した。建物と什器と、残っていた家の金。だが商会の登記はガブリエル商会のまま私のものだ。それは最初から、譲るつもりがなかった。
──いきなり失礼すぎない? いや、でも外国の方だし……でも、いくらだろう? それに踊っている時に話すことなの、これ?
思わず手が離れた。
「ちょっ──」
背中に、温かい手が回った。
「失礼」
ニッキーがエスコートの形で私を支え、ホールの奥を指し示した。
「ちょうど曲も終わりました。あちらでしっかりとお話しさせてください」
「は、はあ」
人波を抜け、ラウンジの隅のソファへ向かった。
「あなたは大切なものを守りたいと言った。私がその役に立てるとしたら、金銭的な提案だと思うのです」
ニッキーが、向かいに腰を下ろしながら言った。
「それが買収ですか?」
「はい。王都に進出されるのであれば、多額の資金が必要でしょう」
「……」
「王都でのビジネスは甘くない。あなたはそれほどの資金を持っていますか?」
「正直、心許ないです」
言葉にすると、現実がより重くなる。
──そうだ。ただ王都に出店するだけで売れるかはわからない。宣伝費、家賃、人件費。手持ちの資金はあっという間に消えるだろう。
「私の商会は王都にすでにいくつもの商流を持っています。その商流に乗せれば、あなた方の商品は必ず売れる」
ニッキーが続ける。
「一方、私はこの国に自社の商品生産拠点を持っていない。あなたの商会を買うことで、それが手に入る」
私は彼を見た。
「条件は?」
「もちろん、貴方が納得するだけの額をお支払いします」
ニッキーが微笑んだ。
「一億Rでどうですか?」
私は表情を動かさなかった。
──一億ですって!? 破格すぎない!?
「あなたも、貴方のところの従業員も、そのまま私の会社で雇い上げます」
「……」
「あなたにはこれまで通り、ガブリエル商会を経営していただきたい。年俸は一千万で如何でしょう?」
ニッキーの目が、真剣だった。
私の口が、静かに開いた。
「お断りします」
ニッキーの目が、わずかに揺れた。
「……精一杯の条件を出させていただいたつもりなのですが」
「いえ、勿体無いほどの好条件です。従業員のためにも受けるべきなのかもしれません」
ラウンジに音楽が流れ込んでくる。笑い声、グラスの音、誰かのドレスが床を擦る音。
「ですが、私は自分の力で立ちたいのです」
ジャックの顔が、一瞬浮かんだ。頭を下げろと言われた夜。お金を渡せと言われた夜。あなたの店は私が認めてやったものだと言われた夜。
「今、あなたの会社の傘下に入ってしまうと……私はバルサン男爵の下にいた時と変わらない」
口に出すと、それは単純な言葉だった。でも、単純だからこそ、ずっと自分の芯にあったものだとわかった。
「私は変わりたい」
ニッキーが黙っていた。
「……すみません」
ニッキーが、静かに言った。
「僕はあなたを侮っていたようです。いきなり買いたいなどと言った、ご無礼をお許しください」
「いいえ」
「改めて、貴女の力になりたい」
「私たちの取引先になってくれれば十分です」
「わかりました。できるだけフェアな契約を結びましょう」
「ありがとうございます」
「そして、その一年で私は貴方の信頼を勝ち取ります」
「……信頼?」
「私は」
ニッキーが、一息置いた。
「貴女がどうしても欲しくなった」
私は口を開いた。
「いえ、だから買収は──」
──買収の話よね?
「仕事の話はここまでです」
ニッキーが立ち上がり、手を差し出した。
「もう一度、踊りに行きましょう」
「ぜひ!」
今度は、自分から手を取っていた。
ホールに戻ると、音楽がまた始まっていた。
人々の輪の中へ、二人で入っていく。シャンデリアの光が揺れ、床に光の粒が散る。
──ガブリエルとニッキー。この世界の商業史に残る二人の出会いであった。
──そして、またこの二人も。
バルサン邸に、夜が深くなっていた。
「妹!?」
ジャックの声が、居間に響く。
「ええ」
ロザリーが微笑んだ。
「実は双子の妹がいるの。この家に住まわせていただける?」
ドアのそばに、もう一人の女が立っていた。
「マリアと申します」
顔は、ロザリーにそっくりだった。ただ、目の色だけが少し違う。
「マリアは手先が器用なのよ」
ロザリーの声は穏やかで、温度がない。
「この子がいれば、あの店を再現できるわ」