作品タイトル不明
手を組みませんか
ジャックの額に、汗が滲んでいた。
──え、え、どういうことだ。盗み出したのが、ガブリエルにバレた?
「丁度、あなた方と契約した日に、偶然ガブリエルさんと汽車に乗り合わせたのですよ」
ニッキーが言った。淡々と、しかし一言一言がきちんと刃になっている。
ジャックの喉仏が、ゆっくり上下した。
「で、お嬢さん」
ニッキーの視線が、ロザリーへ向く。笑顔だった。温度のない、丁寧な笑顔だ。
「もう一度聞きますが──あなたのお名前は?」
ロザリーは口を閉じた。
駅のホームに、風が通った。遠くで汽車の車輪が鳴き、誰かの荷物が石畳を引きずる音がした。
「……ロザリーです」
俯いたまま、声だけが出た。
「おや? 先ほどはガブリエルと」
「……」
「もういいわ、ニッキーさん」
私は一歩前に出た。
ジャックの方へ向き直る。背筋を伸ばし、目を合わせる。彼は私の視線を受けて、わずかに顎を引いた。
「ジャック、あなたがやったことは犯罪よ?」
「……」
「商品を盗み出したことだけじゃない。私の名前を使って偽の契約をした詐欺も加わる」
言葉を、一つずつ置くように言う。
「この事を警察や貴族院に訴えたら、どうなるかしら?」
ジャックの顔から、色が引いた。次の瞬間、彼の膝が折れた。石畳に両手をついて、頭を下げる。
「悪かった。勘弁してくれ!」
声が、掠れていた。
「頼む、ガブリエル。どうか訴えるだけは……」
私は彼を見下ろした。かつての夫が、駅のホームに跪いている。惨めだと思うより先に、ただ、疲れた、という感覚がきた。
「馬鹿馬鹿しい」
呆れが、自然に声になった。
ジャックが顔を上げる。
「私、そんなことをしている暇はないのよ」
ニッキーが眉を上げた。ロザリーが、伏せていた目を持ち上げる。マルコスも黙ったまま、こちらを見ている。
「今日はこれから、カトリーヌ夫人のところへ行って新作の売り込みをしなきゃならないし」
指を一本折る。
「王都への進出計画も練らなきゃならない」
もう一本。
私はジャックの前に屈んだ。目線が同じ高さになる。
「だから」
彼の目が、私の顔を映している。
「今度だけは許してあげる」
ジャックは、口を開けたまま動かなかった。
私は立ち上がり、ロザリーへ向いた。
「ロザリー、あなたも顔をあげなさい」
彼女が、ゆっくり顔を上げた。
「私の名前を騙ったって、しょうがないわよ。あなたは新しいバルサン夫人として、胸を張ったら良いわ」
ロザリーは何も言わなかった。何かを言いかけて、止めた、という顔だった。
「私は荷物を王都に運ぶ」とマルコスが言った。
「ああ」とニッキーが頷く。「僕はガブリエルさんと商談してから帰るよ」
「じゃあ、ニッキーさん、行きましょうか」
「はい」
二人で歩き出す。
背後で、石畳に座り込んだままの二人を、私は振り返らなかった。
「……はは」
ジャックの声が、遠くなる。
「良かったな」
「何が?」
「え、いや」
「まあ、いいわ」
ロザリーの声は、穏やかだった。笑っているのかもしれない。怒っているのかもしれない。
「おうちに帰りましょう、あなた」
◇ ◇ ◇
カフェの窓から、街の午後が見えた。
人々が行き交い、馬車が石畳を踏み、街路樹が風に揺れている。カップから湯気が立ち、向かいの席でニッキーが私を見ていた。
「本当に、彼らを許して良かったんですか?」
「あら、どうして?」
「余りにも悪質だ。また同じようなことをするかもしれない」
私はカップを置いた。
「だからですわ」
「……え?」
「ジャック──バルサン男爵は、本来小心者なの。あんな大それたことができる人間じゃない」
ニッキーが少し考える顔をした。
「ということは……考えたのは、あのロザリーという女性ですか」
「そうだと思います」
私はカップの縁に指をかけた。
「ですが、私はあの女性が何者か全く知らないの。下手に追い詰めて倒しきれない場合、こちらが逆にやられる可能性もある」
「ほう」
「実害が出ていない以上、訴訟に時間を取られたり恨まれたりするより、許して恩を売った方が得するはずだわ」
窓の外で、街路樹が揺れた。
ニッキーが黙っていた。少しの間、ただ私を見ていた。その目に、何か柔らかいものが灯っていた。
「貴方は素晴らしい女性だ」
「え?」
私は思わず、きょとんとした。
「突然、なんですか?」
「いえ」ニッキーが少し目を伏せた。「あまりにも損得の理が通っていて、感心したのです。貴方は根っからの商売人ですね」
「あ……ありがとうございます」
照れくさいような、くすぐったいような。褒め言葉には慣れているつもりでも、これは少し種類が違った。
ニッキーが背筋を伸ばした。
「ガブリエルさん、是非──私と本格的に手を組みませんか?」
テーブルの向こうで、彼の目が真剣になる。
「貴方と、思いっきり商売がしたい」
カフェの中に、穏やかな午後の音が満ちていた。
私は、少しだけ間を置いた。