作品タイトル不明
合併
奥の部屋の扉は、閉ざされたままだった。
トーマスは、そこに引っ込んだきりだ。
私は床に座り込んだまま、ロザリーとマリアを見上げていた。
「ガブリエル」
ロザリーが口を開いた。
「亭主を奪ったアタシを恨んで、嫌がらせしたりはしないわよね?」
「ええ」
私は、迷いなく答えた。
「あなたはもう妹よ。大切に扱うわ。お母様ともそう約束した。それに、商売に貪欲さは必要。その貪欲さに期待してるわ」
「はっ」
ロザリーが鼻で笑った。
「貪欲なのは、あんただろうが」
二人で、見つめ合った。ロザリーの口元が、ふっと緩んだ。
「わかった。私達の負けだ。アンタの言う通りにする」
「そのまさかだよ」
マリアも、肩をすくめた。
「単身ここに突っ込んできて、男とタイマン貼ろうなんて女、初めて会ったよ。惚れたよ。世界最高の店、私は作ってみたい」
「ええ、一緒に作りましょう。マリア」
「うん」
その時だった。
奥の扉が、勢いよく開いた。
「ふざけんな!」
トーマスが、戻ってきた。
鼻に布を当て、それでも止まらない血を滲ませながら、彼は私を睨んだ。
「おい、まさか。姉さんも、マリアも、こんな女の言うことにほだされたんじゃねえだろうな!?」
「トーマス」
「冗談はやめてくれよ!」
トーマスは、足を引きずっていた。
普段は隠している。だが、興奮すると、その不自然な歩き方が露わになる。右の膝から下が、動きにくそうにしている。
「マリア、お前なんか娼婦崩れじゃねえか。姉さんだって、金のためなら何でもする女だ。俺やヴィンセントなんざ、盗み、強盗、頼まれりゃ殺しもやってきた」
トーマスは、まくし立てた。早口だった。いつものなめらかな口調とは違う、追い詰められた者の早口だった。
「俺たちみてえな悪党に、夢だぁ? 笑わせるな。俺たちにあるのは目の前の現実だけだ。明日食う飯と、踏み倒す借金と、それだけだよ!」
部屋の隅で、ヴィンセントが黙って立っていた。何も言わなかった。ただ、トーマスの方を、じっと見ていた。
私は、立ち上がろうとした。膝が震えて、すぐには立てなかった。
それでも、立った。
そして、トーマスの前まで、一歩ずつ歩いた。
「な、なんだよ」
トーマスが、後ずさった。足を引きずりながら。
私は、彼の目を、じっと見た。
口は達者だ。軽口を叩き、人を煙に巻き、いつも一歩引いたところから世界を眺めている。だが、今の彼の目には、それまでなかったものが見えた。
怯えだ。
夢を語る私に対して、彼は怯えていた。
──この人は、夢を恐れている。
なぜだろう、と考えて、すぐにわかった。
夢を持てば、それが叶わなかった時に、傷つく。だから最初から、夢など持たない。「現実だけだ」と言い張る。それは強がりではなく、もう二度と傷つきたくない人間の、防壁だった。
私は、お母様から聞いた話を思い出した。
「トーマスさん」
私は、静かに言った。
「あなた、昔は傭兵だったのね」
トーマスの動きが、止まった。
「お母様に聞いたわ。戦場で、足を悪くしたって」
「……っ」
「傭兵だったあなたにとって、その足がどれだけのものだったか、私には想像することしかできない。でも、わかるわ。あなたは、自分の体一つで生きてきた人だった」
トーマスは、何も言わなかった。鼻血を当てた布を握る手が、震えていた。
「足を悪くして、戦えなくなって、それでもあなたは生きなきゃならなかった。だから、口で生きるようになった。人を丸め込み、騙し、立ち回る。そうやって、生き延びてきたんでしょう?」
よく考えたら、女の私のタックルでこの人は簡単に倒れた。
足が踏ん張りが効かなかったのだろう。
「……黙れよ」
トーマスの声が、掠れた。
「黙れって言ってんだろ」
「でも、あなたは本当は知ってるはずよ」
私は、続けた。
「軽口を叩いて、人を騙して、その日暮らしを続けても——心のどこかは、ずっと、空っぽのままだったんじゃない?」
トーマスの顔が、歪んだ。
それは、怒りではなかった。
私は、トーマスに抱きついた。
血の匂いがした。煙草と、酒と、汗の匂い。彼の体が、びくりと硬直した。
「な——」
「トーマス、あなたも私の兄さんよ」
私は、彼の背中に手を回した。
「離せよ……」
トーマスの声は、もう力が入っていなかった。
私は、そっと体を離した。彼の目を、もう一度見た。
「あなたにお願いしたいことがあるの」
「……何だよ」
「私、あのあと、分業制の工場について調べたの。グラナス帝国の産業革命を支えた仕組みを、あなた達だけで再現したなんて、すごいことよ」
「そ、そりゃあ、考えたのはロザリーで……」
トーマスが、口ごもった。
「俺は、ただ、布地を安く仕入れる伝手を探して、働く奴らを集めただけで……」
「それよ」
私は、彼を見た。
「それが、すごいの」
「は?」
「これから分業制が世界の主流になる。そうなると、どこの工場も、いかに人を集めるかで勝負が決まる。安い布地をどこから仕入れるか、どう労働力を確保するか——それを判断できる人間が、何より必要になるのよ」
トーマスの目が、揺れた。
「あなたは、口で生きてきたと言ったわね。人を見抜き、人を動かし、人を集める。それは、足を失ってから身につけた、あなただけの才能よ。戦場で戦っていた頃には、なかった力」
「才能……?」
トーマスが、呆然と呟いた。
「俺の、これが」
「ええ。これからの時代に、一番必要とされる力よ」
私は、まっすぐ彼を見上げた。曇りのない目で。
「トーマス兄さん、どうか力を貸してください。あなたが必要なの」
トーマスが、下を向いた。
「……くっ」
肩が、震え始めた。
「参ったな」
ヴィンセントが、ロザリーが、マリアが、黙って見ていた。
「ずっと……」
トーマスの声が、途切れた。
布を握っていた手で、目元を覆った。
「ずっと……」
トーマスが、顔を上げた。涙と鼻血で、ぐしゃぐしゃになった顔だった。
「こうやって、誰かに必要とされたかった。本当は……ずっと」
私は、もう一度、彼の手を取った。
「頼りにしてるわ、兄さん」
トーマスが、子供のように、声を上げて泣いた。
足を引きずりながら生きてきた男が、人前で、初めて泣いた。
──愛は人を育み、夢は人を動かす。
クレシェント夫人の愛に育てられたロザリー一味は、ガブリエルの夢の船に乗ることになった。
この日、ロザリー商店のガブリエル商会への吸収合併が成立した。