軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

夢の力

喉が、潰れかけていた。

ヴィンセントの指が、私の首に食い込んでいる。爪先はもう、ほとんど床を離れていた。全体重が、喉の一点にかかる。

息が、入ってこない。

吸おうとしても、気道が細くなっていて、ひゅう、と頼りない音がするだけだった。肺が、空気を求めて痙攣する。胸が上下しても、何も入ってこない。

視界の縁から、黒いものが滲んできた。

ランプの光が、遠くなっていく。トーマスの声も、マリアの誰かを呼ぶ声も、水の中から聞いているように、ぼやけて届く。

頭の中に、血の音だけが、どくん、どくんと響いていた。

──ああ、私、ここで死ぬのかしら。

不思議と、その考えは静かだった。

恐怖は、もう感じなかった。恐怖を感じるための酸素すら、残っていないのかもしれない。意識が、ゆっくりと体から剥がれていくような感覚。

その、遠のいていく意識の底で。

ふいに、声が聞こえた。

──「愛だよ、愛!」

ミランダの声だった。

あの謁見の間で、ダイヤの義眼を光らせて、夫人は確かにそう言った。

──「アタシの深ーい愛があるからこそ、アイツらは言う事を聞くのさ」

なぜ今、それを思い出したのか、自分でもわからなかった。

死にかけている人間の頭は、奇妙なことを引っ張り出す。子供の頃の景色や、忘れていた匂いや、誰かの何気ない一言を。

私の場合、それが、あの夫人の言葉だった。

──愛。

霞んでいく意識のなかで、私はその言葉を、ぼんやりと転がした。

夫人は、愛で人を縛ると言った。実際にこの男たちは、夫人の言葉には従う。私が「兄弟だ」と言っても首を絞めるこの男が、夫人の名の下では、決して逆らわない。

なら、私には何があるだろう。

私は愛を知らない。

父にも母にも愛されず、子も持たず、夫には捨てられた。人を縛れるだけの愛など、私のどこにもない。

──だったら、私は……。

意識が、また一段、暗くなった。

──私には、何が、ある……?

その時、暗闇の底に、一つだけ、消えずに灯っているものがあった。

カトリーヌ夫人の、最期の笑顔。月の下で、子供みたいに笑った、あの顔。それを壊した者たちが、今、私の首を絞めている。

そして、その火のそばに、もう一つ。

私の店。私が、布の手触りと、客の目の輝きで、四年かけて育てたあの場所。

──そうだ。私には、

「離してやれ、ヴィンセント」

トーマスの声が、遠くで聞こえた。

ヴィンセントの手が、ゆっくりと離れた。命じられた通りに、何の感情も込めずに。

支えを失った体が、床に崩れ落ちた。

「ごほっ……ごほっ……!」

肺が、一気に空気を吸い込んだ。咳が止まらない。涙が、勝手に滲んでくる。喉の奥が、焼けるように痛い。地面に手をつき、私は何度も咳き込んだ。

トーマスを中心に、四人が私を見下ろしていた。ヴィンセントは一歩下がって、また無言の壁になっている。

「いいですかい? これに懲りたら、今すぐ王都に帰るんだ」

私は、咳の合間に、息を吸った。

吸えることが、こんなにありがたいとは思わなかった。

そして、その吸い込んだ息で、私は地面を蹴って、立ち上がった。

膝が、震えていた。立っているのがやっとだった。

それでも、立った。

「私には……」

掠れた声を、振り絞る。

「ガブリエル商店を……世界一にする……」

私はもう一度、自分の足に力を込めた。

「夢が、ある」

ロザリー一味が、固まった。

驚いた目をしたのは、ロザリーとマリアとヴィンセントの三人。トーマスだけが、苛立った顔をしていた。

「あ?」

「それは、誰もが憧れる世界最高のお店よ」

私は、四人に手をかざした。まだ、指先が震えていた。

「そして——その夢の船に、あなた方も乗るのよ!」

マリアが、目を見開いた。心を掴まれたような顔だった。ロザリーは戸惑っていた。ヴィンセントは、ただ私を見ていた。何の感情も浮かべないまま。

「そして私は、あなた達を見たこともないような素敵な世界に連れていく」

声が、震えていた。さっき首を絞められたからか、それとも別の理由か、自分でもわからなかった。

でも気力を振り絞って、はっきりとと声を出して言った。

「私なら、それが出来る!」

地面を踏み締めて、獣のように吠えた。

バチン。

頬の骨に、火花が走った。

トーマスの掌だった。

世界が一瞬、白く飛んだ。

体が傾く。床が回る。胃の中身がせり上がる感覚。倒れた瞬間、肘が床板を打って、肩まで痺れが走った。

「舐めるなよ、クソアマ!」

口の中に、鉄の味が広がった。

「そんなもん、俺たちみてーな奴には関係ねえんだよ」

唇の端から、垂れた血が顎を伝う。それが床に落ちた。一滴、二滴。

「いいから帰れよ!」

──帰れない。

頬が燃えていた。耳鳴りがしていた。視界の半分が霞んでいた。さっき酸素を奪われた体は、まだ本調子に戻っていない。手も足も、鉛のように重い。

それでも頭の中だけは、奇妙なほど冴えていた。

──ここで帰ったら、私は、何にもなれない。

さっき、死にかけて、わかったことがある。

私には愛がない。人を縛る力もない。体の力では、この男たちに、指一本分も敵わない。

でも、私には夢がある。

そして、夢を信じさせるには——まず、私自身が、その夢のために死ねることを、見せなければならない。

私は床の砂を、ぎゅっと握り込んだ。

爪の隙間に砂が食い込む。痛みが、頭の芯まで届く。

その痛みを、燃料に変えた。

「あ?」

トーマスが、私の前で煙草を咥えた。マッチを擦る。

「まだ何か言いたいのか——」

私は、跳んだ。

低く、地面を這うように。

トーマスの太腿に、肩から突っ込んだ。

体重を、全部乗せた。

骨と骨が当たる、鈍い音

「な——」

トーマスの足が、空を切った。

体が後ろに倒れていく。

私は彼の腰に組み付いたまま、一緒に床に落ちた。

派手な音。テーブルの脚が揺れた。グラスが一つ、落ちて砕けた。

「ガブ……っ!?」

マリアの声が遠くで聞こえた。

私はトーマスの胸の上に、馬乗りになっていた。

息が荒い。横隔膜が震えている。視界が狭まっている。

私は両拳を、振り上げた。

振り下ろした。

一発目。トーマスの腕がガードに上がった。

二発目。ガードの上から、骨が痺れる。

三発目。掌が裂けたのが、わかった。

四発目。

五発目。

「おいおい——」

トーマスの声に、苛立ちと、それからわずかな戸惑いが混じった。

「女の細腕で、そんな事したって……」

私は、拳を止めなかった。

血が、誰のものかわからなくなっていた。私の口から垂れたのか、私の拳から滲んだのか。それが彼の腕

に、シャツに、床に散った。

「やめろ、っての、が——」

トーマスが起き上がろうとした。

私はその肩を、両手で掴んだ。

体を、目一杯に反らした。

背骨が悲鳴を上げた。それでも反らした。

そして、振り下ろした。

ゴン。

額が、トーマスの鼻骨を捉えた。

骨と骨の、嫌な音。

私の額にも、雷が落ちたような衝撃が走った。視界がもう一度、白く飛んだ。

「グッ……!」

トーマスの鼻から、血が噴いた。

彼の体が震えた。激痛と、屈辱で。

「くそっ……! このアマ……!」

トーマスが、私を跳ね除けた。

私は床に転がった。腰を打った。腕で支えようとしたが、力が入らない。指先まで、震えが回っている。

それでも、私は身を起こした。

トーマスが、立ち上がっていた。

鼻から流れた血が、シャツの胸まで真っ赤に染めていた。額の血管が浮いている。目の白い部分が、充血して赤くなっている。

「本気で、ぶん殴られねえと、分かんねえのか!?」

拳が、振り上げられた。

その拳には、加減がなかった。

私は、その拳を見ていた。

逃げなかった。

逃げる余裕も、もうなかった。

──来るなら、来い。

歯を、食いしばった。

奥歯が砕けてもいい。顎が外れてもいい。それでも、私はここに立っている。

──私を屈服させたいなら、殺せ。

──殺さない限り、私は何度でも立ち上がる。

ガッ。

トーマスの拳が、止まった。

太い腕が、彼の肩を掴んでいた。

ヴィンセントだった。

無言で、トーマスを後ろに引いた。

「お前の負けだ」

低い声だった。それまで一言も発さなかったヴィンセントの、初めての言葉だった。

「さけんなヴィンセント!」

トーマスが、肩を振り解こうとした。

ヴィンセントの手は、動かなかった。岩のように、そこにあった。

「離せよ! 離せって言ってんだろ!」

ヴィンセントは、トーマスを見なかった。

代わりに、顎で背後を示した。

トーマスが、ようやく振り返った。

マリアとロザリーが、立っていた。

二人とも、トーマスを見ていた。

その目に、それまでの軽口や愉快さは、もう一片も残っていなかった。

「もうやめてよ、トーマス」

マリアの声が、震えていた。

「何だよマリア。まさか——」

「やめてって言ってんの」

マリアが一歩、踏み出した。

その顔は、もうさっきの「妹分」のマリアではなかった。

商人の顔だった。決断した者の顔だった。

ロザリーが、静かに口を開いた。

「トーマス、退きな」

「ロザリー、お前まで——」

「退きな」

ロザリーの声に、有無を言わせない響きがあった。

トーマスが、ようやく拳を下ろした。

肩で息をしながら、私を睨んだ。

それから、ヴィンセントの腕を振り払い、奥の部屋へ歩いていった。

ドアが、乱暴に閉まった。

静寂が、戻ってきた。

私は、床に座り込んでいた。

膝が、もう立たない。

腕も、上がらない。

ただ顔を上げて、マリアとロザリーを見上げた。

二人とも、私を見下ろしていた。

その目の中に、さっきまでなかったものがあった。

何かを見極めたような、決めたような、目だった。

「……あんた、本当に怪物だね」

ロザリーが、低く呟いた。

私は、口の端で血を拭いながら、笑った。

笑った瞬間、頬の痛みが脳天まで貫いた。

それでも、笑った。

「ありがとう、姉さん」

ロザリーの肩が、ほんの少しだけ震えた。

部屋の隅に、ヴィンセントが立っていた。

ようやく言葉を発したばかりの大男は、もう何も言わなかった。

ただその目に、最初に私を見た時とは違う何かが、確かに灯っていた。