作品タイトル不明
愛の力
ロザリーがガブリエルの貪欲さに圧倒されている一方で。
「やい、ガブリエル、てめえ」
妹分のマリアは、全く違う反応を見せていた。
私の前に出てきて、抗議の声を上げる。
「随分、卑怯な真似してくれるじゃねえか?」
「卑怯な真似?」
「ああ、そうだよ」
マリアが鋭く私を見た。
「あんたは堂々と商売で勝負してくれると思ってた。にも関わらず、ママに取り入ってこっちを買収するなんて、卑怯じゃないのさ!」
「そうかしら?」
「はっ、これが卑怯だって分かんねえ女だとしたら、随分見損なったこったねえ」
マリアが、一歩踏み込んだ。
「アタシはね、内心アンタの事を認めてたんだけどね」
「……」
「言っとくけど、ママが何と言おうが、そんなアンタの下でアタシは絶対に働かないよ」
「マリアさん」
私は、ドンと前に出た。
「それは困るわ」
マリアが、口を結んだ。
「私は勝負しても良かったのよ。でも、最初に私たちのセレモニーパーティをめちゃくちゃにしてくれたのは、あなたたちじゃない」
「は? 何のことだよ」
「招待客に偽の日付の招待状を送ったり、行政官に同日同時間に無理やり講演会させたりしたのは、あなたたちでしょ?」
「あ? そんな事知らねえよ……」
マリアが、トーマスとヴィンセントの方を振り向いた。
トーマスは、お手上げ、という顔をしていた。ヴィンセントは黙ったまま、視線を逸らした。
マリアの顔が、固まった。
「……」
私は静かに続けた。
「直接の原因じゃないかもしれないけど、私の大切な人がそのために亡くなった」
「!」
「その事は、謝罪して欲しいわね」
トーマスの口元が、ふっと笑った。
その笑みが、それまでの軽薄なものとは、種類が違った。
トーマスが、ゆっくりと前に出た。一歩、二歩。そして、その背後で、ヴィンセントが立ち上がった。
立ち上がった瞬間、部屋が狭くなった気がした。
ヴィンセントは、大きかった。座っている時にはわからなかったが、立つと天井に頭が届きそうなほどだった。肩幅は、私の倍はある。腕は、私の太腿より太い。その巨体が、ランプの光を遮って、床に大きな影を落とした。
私は、ふいに思い知った。
──ここは、敵の家だ。
私は女一人で、武器も持たず、護衛もつけず、この場所に立っている。目の前には、人を傷つけることを生業にしてきた男が二人。片方は口が回り、片方は——その気になれば、私の体など、簡単に壊せる。
頭ではわかっていたはずだった。だが、ヴィンセントが立ち上がって初めて、それが現実の重さを持って迫ってきた。
「はいはい、それをやったのはアッシらですからねえ」
トーマスが軽い調子で言った。声は軽いのに、目は笑っていない。
「それが気に入らねえっつーなら、頭くらい下げますがね」
「ただアッシらは元々、人がやらねえ事を何でもやるのが稼業なもんで」
「……」
トーマスが、もう一歩近づいた。
私との距離が、腕一本分になった。彼の体から、煙草と、酒と、それから何か饐えたような匂いがした。
「そんな事より、お嬢さん」
声が、低くなった。
「女一人でこんなところに来て、大丈夫なんですかい?」
──ぞくり、と背中が冷えた。
「兄弟のところに来るのに、いちいち周りに報告なんかしてないわ」
声が、上ずらないように気をつけた。喉の奥が、勝手に渇いていく。
「へー」
トーマスの目が、すっと細くなった。
「ここに来るのは、誰にも言ってないと?」
しまった、と思った時には、遅かった。
口にした言葉が、そのまま自分の首を絞める縄になることを、私はこの瞬間に理解した。誰も、私がここにいることを知らない。私が今夜消えても、明日まで誰も気づかない。
トーマスの口元が、にやりと吊り上がった。獲物を見つけた目だった。
「ええ、お母様以外には」
私は、辛うじてそれだけ言った。
「ヴィンセント」
トーマスが、短く呼んだ。
その一言だけで、巨体が動いた。
私は、後ずさろうとした。だが、足が思うように動かなかった。
ヴィンセントが、私の前に立ちはだかった。
見上げた。首が痛くなるほど、見上げた。彼の顔は、ランプの逆光で陰になっていて、表情が見えない。ただ、その大きさだけが、私の視界のすべてを埋めた。
次の瞬間、巨大な手が、伸びてきた。
私の首を、片手で掴んだ。
「——っ」
声が出なかった。
指が、一本ずつ、喉の皮膚に食い込む。親指と他の四本が、私の首をぐるりと一周して、まだ余っていた。手のひらの幅だけで、私の首の太さを完全に覆い尽くしている。
軽く、力を込められた。
それだけで、気道が細くなった。呼吸が、ひゅう、と浅くなる。爪先が、わずかに床から浮いた。体重が、首の一点に集中する。
私は、両手でその腕を掴んだ。
掴んで——絶望した。
びくともしない。
私が渾身の力で握っても、その腕は、木の幹を掴んでいるのと変わらなかった。私の力など、彼にとっては、虫が止まった程度の感触ですらないだろう。
──ああ。
頭の冷静な部分が、淡々と告げた。
──この男は、本気を出していない。
軽く、握っているだけだ。なのに、私の足はもう床を離れかけている。彼がほんの少し指に力を込めれば、私の喉は潰れる。手首を捻れば、私の首の骨は折れる。それは脅しではなく、ただの物理だった。私の体は、それに抗う術を、一つも持っていなかった。
「ヴィンセントはちょいと力が強くてね」
トーマスの声が、横から聞こえた。やはり、笑っている。
「アンタの首なんか、片手でポキリだ。試してみますかい?」
ヴィンセント本人は、何も言わなかった。
私は、必死に彼の顔を見ようとした。せめて、そこに憎しみでも、嗜虐でも、何か人間の感情があれば。それなら、まだ言葉が通じる余地がある。
だが、逆光の中でようやく見えたその目には、何もなかった。
憎しみも、楽しみも、躊躇いもない。
ただ、命じられたから手を伸ばした、という目だった。私を一人の人間としてすら、見ていない。彼にとって私は、握り潰すか否か、命令を待つだけの、物体に過ぎなかった。
それが、何より怖かった。
殴られるより、罵られるより、この無関心が、私の背筋を凍らせた。
喉の奥で、心臓の音だけが、異常な速さで鳴っていた。
その、遠のいていく意識の底で。
ふいに、声が聞こえた。
──「愛だよ、愛!」
ミランダの声だった。
あの謁見の間で、ダイヤの義眼を光らせて、ミランダ・クレシェント夫人は確かにそう言った。
──「アタシの深ーい愛があるからこそ、アイツらは言う事を聞くのさ」
なぜ今、それを思い出したのか、自分でもわからなかった。