作品タイトル不明
別れの日
「こちらです」
執事が、廊下の奥へ私を促した。
カーペットの上に靴音が落ちる。私の足が、いつもより重く感じた。
部屋の入り口に立った。
ベッドが、見えた。
その上に、夫人がいた。
私は一歩、踏み出した。
もう一歩。
ベッドのそばまで歩み寄り、口に手を当てた。
──……。
夫人の顔は、安らかだった。眠っているように見えた。眉が静かに伏せられ、唇が穏やかに閉じられている。皺の一つひとつが、優しい角度で並んでいる。
「朝、お声がけした時のままの、安らかな顔です」
執事が、後ろで小さく言った。
「おそらく、なんら苦しむことなく逝けただろうと……」
私は手を口に当てたまま、立ち尽くしていた。
「あなたが作った帽子?」
カトリーヌ夫人の声が、頭の中で蘇った。
「はい。貴族の女が商売なんてと仰るかもしれませんが」
「あら、いいじゃない」
夫人がにこりと笑っていた。
「じゃんじゃん稼いじゃいましょうよ。私、応援するわ」
──!
「これからは、女も経済力を身につけるべきよ」
夫人が、私に向かってウィンクした。
現在の夫人の顔が、目の前にあった。
「奥様……」
声が、自分の口から漏れた。
涙が、目の奥で滲んできた。
口に当てていた手を、ゆっくり離した。
両手を組み、私は祈った。
◇ ◇ ◇
「最近は体調も随分回復してきて、私たちも油断しておりました」
執事が、ぽつぽつと話した。
「ただ、昨日パーティから帰ってきた奥様は、大変気落ちしていて……」
「はい」
──奥様は、ご友人を何よりも大切にしていた。
だから、ご友人が殆ど来なかった昨晩の会は、本当に悲しかったに違いない。しかも、あんな──。
──「婆さん」
クレシェント夫人の声が、頭の中で響いた。
──「あんた、長くないだろう」
──あの人が、未来を予期したとは思わない。
あれは、呪いだ。
私は胸の辺りを、ぎゅっと掴んだ。
──そして、あんな人を呼び寄せてしまった私が、夫人の寿命を縮めてしまったんだ。
扉の音がした。
「……ガブリエルさん」
ニッキーとマルコスが、入ってきた。
私は振り向いた。涙が、もう頬を伝っていた。
そしてまた、ベッドの方を向いた。
ベッドに顔を突っ伏して、声を上げて泣いた。
マルコスが、ニッキーを促した。
ニッキーが私の側に来て、肩をそっと抱いた。
その手の温かさだけが、現実だった。
◇ ◇ ◇
数日後、カトリーヌ・アルベール夫人の葬儀が行われた。
黒い喪服に身を包んだ参列者が、教会の階段を上っていく。祭壇の前で、白い百合が静かに香っていた。
葬儀には、閑散としたセレモニーパーティーが嘘だったかのように、沢山の人が訪れていた。
そのほとんどは、本来あのパーティに招待されていた人達だった。
涙ぐむ婦人、ハンカチで目を押さえる紳士。誰もが夫人を悼み、声をひそめて言葉を交わしていた。だが、後ろめたさがあるのか、誰もパーティの話題には触れなかった。
私はマルコスとニッキーと共に、参列者の流れの脇に立っていた。
「ガブリエルさん」
声が背中に届いた。
若い夫婦が立っていた。
「アレクシス伯爵、この度はご愁傷様でした」
──アレクシス伯爵は、カトリーヌさんの一人息子。
現在は領地を引き継ぎ、遠い地で領主として夫人と生活しているのよね。
「つつがなく葬儀も進みました。準備など色々ありがとうございました」
「いえ、これも夫人の人徳の賜物です。お母様には生前、大変お世話になりました」
夫婦が、躊躇いがちに目を伏せた。
「実はガブリエルさんに、お渡ししたいものがあるのですが……」
「私に?」
「はい、どうぞこちらに」
応接室に通された。
蝋燭が並び、夫人の写真が飾られた小さな祭壇があった。アレクシス伯爵が、机の上に書類を広げた。
「こちらをご覧ください」
私はそれに目を落とした。
「これは……借金の証文?」
紙の上に、夫人の名前と、いくつかの数字。それから、複数の署名と日付。
「それと、こちら」
伯爵が、もう一枚の紙を差し出した。
「母が死ぬ前日に、まとめたものです。ガブリエルさんに渡すようにと」
「!!」
夫人の筆跡だった。
私の名前が、その紙の冒頭に書かれていた。