作品タイトル不明
カトリーヌ夫人VSクレシェント夫人
時計は、十八時を十分過ぎていた。
裏庭は静まり返っていた。スタッフたちは息を潜め、誰も話さない。エレナがテーブルの花を黙って見つめ、ナタリーがスカートの裾を握っている。マルコスが入り口の方を、無意識に確認していた。
椅子に腰を下ろしたカトリーヌ夫人が、肩を震わせていた。シクシクと、低く、押し殺すような泣き方だった。
私は彼女のそばにひざまずき、肩を抱いた。
何も言葉が出てこなかった。
外から、馬車の音が聞こえた。
全員が一斉に振り向いた。
降りてきたのは、一人の紳士だった。派手ではないが、品のある服装。オーランド男爵だった。
彼は会場を見回し、驚いた表情を浮かべた。
「おや、これは……やっぱりパーティーをやっていたのですか」
カトリーヌ夫人がハッと顔を上げた。涙を拭いながら、男爵に駆け寄った。
「オーランド男爵! どうして遅れたの!? それに、奥様はどこなの?」
男爵が少し困惑しながら、ポケットから手紙を取り出した。
「今朝、これが届いたんです。日時が変更になったと……」
夫人が手紙を受け取った。目を通した瞬間、その手が震え始めた。
「こんな手紙、私は出しちゃないわよ!」
「で、ですが、この手紙は間違いなくガブリエル商店のものですよね?」
私とニッキーが横から覗き込んだ。
封筒の隅に、小さく、ガブリエル商店のロゴ。
──そ、そんなばかな!
「マルコス、最初の手紙はどこで印刷したんだ」
ニッキーが低く言った。
「ニッキー、街の印刷業者だ」
「くそ、そこからロゴが盗まれたんだ。だからこんな手紙……」
──誰かが意図的にパーティーを妨害したんだわ。
「それに、今日はブレンナールの行政官が、『夫人参政権』についての講演会を開いているんです」
オーランド男爵が続けた。
「何それ! 私、聞いちゃいないわよ!」
「突然開催が決まったんですよ。街の女性は皆そちらに行っています。夫人には案内は来なかったのですか?」
「だから知らないってば!」
「つ、妻はそちらに行っています。この街は最近、新しい人たちが増えて、情報が錯綜していてね……」
男爵が申し訳なさそうに帽子を取った。
「と、とにかく、私は顔を出したので失礼します」
馬車が遠ざかっていった。
その後、ポツポツと来客はあった。だが、誰もが似たような言葉を残して去っていった。
「私たちも、日付変更の手紙を受け取ったのですが……」
「いずれにせよ、今日は他に予定がありまして……」
「急用が入ってしまって……」
「一体、どうなってるんだ……?」
パージが呟いた。
私は唇を噛みしめながら、周囲を見渡した。
カトリーヌ夫人は、招待リストを膝の上に置いたまま、黙って下を向いていた。
再び、馬車の音が聞こえた。
全員が振り向いた。
ナタリーが、ミシェルが、エレナが、マルコが、そしてニッキーが、それぞれの位置で同じ方向を見た。
扉が開いた。
クレシェント夫人が、優雅に扇子を広げながら姿を現した。後ろに、少年と少女を従えている。
「おやおやまあまあ」
夫人の口元から、煙のような言葉が漏れた。
「なんて寂しいパーティー会場だい」
カトリーヌ夫人が顔を上げた。スタッフたちが、息を呑んだ。
私は鋭い眼差しで、クレシェント夫人を見据えた。
「……あなたがやったのね」
「言いがかりはやめておくれ、ガブリエル」
夫人は肩をすくめて微笑んだ。
「その方は?」
カトリーヌ夫人が、私を振り返った。
「ガブリエル、あなたが呼んだの?」
「いいえ! 私は呼んでません!」
クレシェント夫人が、二人をゆっくりと見比べていた。
「あなたがカトリーヌ夫人かい?」
「!」
「アタシはミランダ。夫は王都のフィリック・クレシェント伯爵さ」
「クレシェント夫人!」
カトリーヌ夫人の目に、火が灯った。
「あなた、評判が悪いわよ。孤児を拾っては悪さに使ってるって」
「はあ?」
「そうか。あなたね? あなたがパーティを邪魔したのね! 許せないわ!」
夫人が立ち上がろうとした。
「ガブリエル、行政官に言ってこの人捕まえてもらいましょう! 悪い人よ!」
「おい、婆さん」
クレシェント夫人の声が、低く落ちた。
「あなた……いま」
カトリーヌ夫人の体が、わずかに震えた。
「さっきまで、アタシはその行政官のパーティにいたんだよ」
スタッフたちが、戦慄した目で見ていた。
「アンタこそ、そこで悪い噂がたってたよ」
「カトリーヌってばあさんが、ガブリエルって元男爵妻にそそのかされて、高い帽子買わせようとしてるってな」
「そんな噂、あるわけないでしょ!」
私は声を上げた。
「夫人ほど、この町で人望がある人はいないわよ!」
「そうかい?」
夫人が片目を細めた。義眼のダイヤが、夕日の名残を受けて鈍く光った。
「アンタに捨てられた元夫が、涙ながらに語ってたよ」
──ジャック!
「ガブリエルちゃん大丈夫よ!」
カトリーヌ夫人が私の前に出た。
「クレシェント伯がなんだろうと、この街でこんな真似、誰にもさせないんだから」
「おい、婆さん……」
「あなた、また!」
カトリーヌ夫人が声を荒げた。
私はその声に被せた。
「クレシェント夫人!」
クレシェント夫人と、カトリーヌ夫人の間に、私は立った。
「私をどう言おうと構わないけど」
息を吸う。
「カトリーヌ夫人を侮辱するのは、許さない」
クレシェント夫人と、私の視線が、まっすぐ交差した。