軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

ロザリーという女

名前を、女は自分から言った。

「ロザリーよ。初めまして、ガブリエルさん」

唇の形が綺麗だった。言葉の端まで、丁寧に整えられている。視線はまっすぐ私に向いていて、値踏みとも挨拶とも取れる光が宿っている。

私は彼女を見た。艶のある黒髪、仕立ての良いドレス、そして──腹部に添えられた、片手。

ロザリーはその手に、ほんの少し力を込めた。

「そして」

間があった。石畳に、馬車の遠い音が転がる。

「この子は、私とジャックの子よ」

空気が、一枚だけ薄くなった気がした。

──あの夜、ジャックが言っていた。子供ができた、と。恋人の間に男の子が生まれた、と。言葉では知っていたはずなのに、こうして本人を目の前にすると、知識と現実の間に細い溝がある。私はその溝を、一呼吸かけて越えた。

店の外では、行列がまだ動いている。ナタリーの声が通りに張っている。槌の音が、奥から規則的に届く。

ジャックの喉仏が、小さく上下した。隣で彼は口を閉じたまま、視線だけを宙に逃がしている。

私は微笑んだ。

「それは、おめでとうございます」

ロザリーの目が、わずかに揺れた。ジャックの肩が、一瞬だけ上がる。おそらく、この反応は予想していなかったのだろう。怒鳴られるか、泣き崩れるか、あるいは黙って引っ込むか──そのどれかを、二人は待っていたはずだ。

私はジャックの方へ顔を向けた。

「じゃあ、ジャック。あなたこの子と再婚するわけね」

「いや、まあ、その予定だが……」

彼の声は、珍しく歯切れが悪い。私はロザリーに笑いかけた。

「大変よ〜、この人、女癖も悪いし金遣いも荒いから」

「なっ──」

ジャックの声が裏返る。ロザリーは何かを言いかけて、口を止めた。私はすでに踵を返し、店の中へ一歩踏み込んでいた。

「あ、そうだ。ちょっとお待ちになって」

棚の端に立てかけてあった一本を、私は手に取った。仕立ては昨日仕上がったばかり。柄の先に小さな真鍮の輪がついていて、歩くたびに微かな音が鳴る。

店先に戻り、ロザリーに差し出す。

「……これは?」

「日傘よ」

私は留め金を外し、傘を開いた。淡い色の生地が広がり、レースの縁に日差しが透けて入る。ロザリーの顔に、細かい光の粒が散った。

「今日は日差しが強いから、プレゼントするわ」

「──」

「熱中症にでもなったら大変でしょう」

ロザリーはしばらく、傘の柄を見つめていた。受け取るべきか、断るべきか、その計算が彼女の瞳の奥で素早く動いているのが、なんとなくわかった。

やがて、細い指が柄を握る。

私はその手に、ゆっくり傘を渡した。

「じゃあね、ロザリー。元気な赤ちゃんを産むのよ」

「……」

「ら、来月までだからな」

背後でジャックが声を張った。拠り所を探すように、言葉が少し大きすぎる。

「店は出てってもらうぞ」

「わかってるわよ」

私は振り返らずに答え、店の扉へ手をかけた。

◇ ◇ ◇

閉店後の店内は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。作業台の上に布端が残り、針山の針が西日に光る。パージが腕を組んで私の前に立ち、眉の間に深い線を刻んでいた。

「なんであんな奴らに傘を渡したんだ」

責めているわけではない。ただ、わからない、という顔だ。

「生まれてくる赤ちゃんに罪はないわ」

「奥様……心広すぎません?」

ナタリーがおそるおそる口を添える。ミシェルは何も言わず、でも同じことを思っているように見えた。

私はカウンターに帳面を広げた。

「今日の売上、私たちの帽子に加えて、ミシェルの新商品の靴、さらに余り布で作った日傘も売れ行き好調だったわ」

「は、はあ」

ナタリーが話の急な舵に戸惑う。

「来月、夜会シーズンが終わるまで稼いで稼いで現金を貯める。そして、そのお金を元手に新店をオープンするのよ」

「それは分かっていますが……」

「そんな私たちの目標に対する、最大のリスクがジャックの嫌がらせよ」

三人が同時に顔を上げた。

「ジャックは腐っても子爵だし、交友関係も広い。今は争いたくないの」

「だから……」とパージが低く言う。

「だから好意的に接したの。あれであの人もあの子も、私たちを攻撃しにくくなるわ」

パージが眉を寄せる。

「なんだい。アイツを許したんじゃないのかい」

「許すわけないわ」

私は帳面を閉じた。

「ただ、叩き潰すのは今じゃない」

窓の外で、通りの灯がひとつ、またひとつと点っていく。石畳が夜の色に沈み、店の影が長く伸びる。

「私たちが、もっともっと力をつけたときよ」

三人の表情が、静かに変わった。笑ってもいない、泣いてもいない。ただ、火が灯ったような顔だ。それで十分だった。

◇ ◇ ◇

夜のバルザン亭は、蝋燭の匂いがした。

ロザリーはソファに深く沈み、ワインのグラスを指先で回していた。赤い液体が揺れるたび、壁に光の染みが動く。

「おい、お腹に子供がいるんだ。酒はやめた方が──」

「これぐらい大丈夫よ」

ジャックの言葉を、ロザリーは軽く払った。グラスを傾け、口をつける前に、ふと息を吐く。

「それにしても、気に食わないわね」

床には日傘が転がっていた。ロザリーがそこに投げたのか、あるいは置き忘れたのか、柄の先の真鍮の輪が蝋燭の光を鈍く返している。

「あの女のことか?」

ジャックがソファの端に腰を下ろし、手を伸ばす。

「どうせすぐいなくなる人間だ。忘れておくれ」

「うん。ごめんジャック。愛してるわ」

ロザリーは身をジャックに預けた。彼の肩から、ほっとした息が漏れる。

その耳元で、ロザリーの目だけが動いていた。

──バカが。

気に食わないのはお前だよ、と、声にならない言葉が胸の中に落ちる。

ガブリエルの顔が浮かんだ。日傘を差し出したときの、あの笑い方。怒っていなかった。悲しんでもいなかった。ただ、まっすぐこちらを見ていた。一秒もたじろがずに。

──一眼見て分かった。あの女は、この男より格上だ。

この男はあの女を捨てたつもりでいる。だが実際に捨てられたのは、どちらだろう。

ロザリーは瞼を少し伏せた。

──上手く貴族夫人に収まれると思ったのに。この男、思ったより資産もないし、物足りないわ。

「そろそろ、どうだいベッドの方へ……」

ジャックの声が耳元に近づいてくる。ちょうどその時、扉をノックする音が響いた。

ロザリーはするりと身を起こした。

「あら、お客さんが来たみたいよ。出てくるわ」

「誰だ、こんな時間に」

ジャックの不満を背中に受けながら、ロザリーは扉のノブに手をかけた。

ドアが開く。

立っていたのは、見知らぬ顔だった。年齢は読みにくい。背筋が良く、物腰は柔らかく、しかし目の奥に何かが静かに光っている。

「突然の訪問、恐れ入ります」

男は、はっきりとした声で言った。

「私、貿易省のニッキー・カートライトと申します」

一拍の間。

「こちらに、ガブリエル・レ・バルサン夫人はお住まいですか?」

ロザリーの心臓が、一度だけ強く打った。