作品タイトル不明
帽子と靴と日傘
朝の街は、まだ体温を確かめている最中のように涼しく、通りの石は昨夜の露を薄く残していた。店の看板の金文字が白く曇り、ゆっくり息を吸い込むたび、布と糊の懐かしい匂いが胸の奥の癖を撫でる。
ガブリエル洋品店の前に、人影が二つ。職人長のパージと、腕まくりした見習いのミシェル。二人の影が扉まで伸びて、朝の角度で私の足元をかすめた。
「おはよう、ナタリー。いい朝だね」
「おはようございます」
いつもの会話が、いつもの音で続く。ナタリーが鍵束を取り出し、扉に手を伸ばす。
「……あら? 鍵が開いてるわ」
パージが眉を寄せる。
「おいおい、まさか泥棒に入られたんじゃ……」
扉が押し開かれ、古い蝶番が小さく鳴く。箒を握ったナタリーの指先に力がこもり、ミシェルは拳を握りしめる。朝の空気が店に流れ込み、布地の山が淡く震えた。
「──あら、みんな。おはよう!」
振り返った顔に、三人の視線が吸い寄せられる。ナタリーが息を呑み、手が口元へ跳ね上がる。
「お、奥様? か、髪が……」
鏡を見なくてもわかる。首筋が軽く、視界の縁がすっきりしている。私は髪を切った。いや、正確には──売った。
「髪は売ったわ」
言葉は静かに落ちた。小さな石を水面に投げるみたいに。波紋はすぐに広がり、三人の顔色を少しずつ塗り替える。私はパージに小袋を差し出した。
「パージさん、これでウサギのフェルトを目一杯仕入れてくれる?」
戸惑いの眉がほどけないまま、彼は袋の口を開いた。金属が触れ合う乾いた音。
「相当仕入れられるが……何があったんだ、ガブリエル」
私は頷きも否定もしない。胸の真ん中で、ひとつだけ、固い灯が燃えている。それを言葉にすると弱くなる気がして、私はただ前を向いた。
◇ ◇ ◇
「り、離縁ですか……」
ナタリーの声は上擦っていた。
「そう。今日から私は奥様でもなんでもない。ただの女よ。よろしくね」
声に余計な飾りがつかない。むしろ、飾りは切り落としてしまった方が歩きやすい。
パージが腕を組む。
「でも、大丈夫なのかい。家を追い出されて、金も無いんだろ。しかもここは三ヶ月で出されちまうなんて……」
「全然、余裕よ。むしろ三ヶ月もあるんだから」
ナタリーの目が大きくなる。ミシェルの喉が小さく鳴る。
「来月から王都は夜会シーズンに入るわ。あちこちの邸宅や迎賓館で、夜会が繰り広げられる」
私の脳裏では、光の粒が踊り、扇の骨が開閉し、笑い声がシャンパングラスの縁を叩いている。
「帽子を売って、売って、売りまくるのよ。その間に新しい店舗を探す」
呼吸がそろう。胸の中のメトロノームが拍を刻み始める。
「だからできるだけ沢山の在庫が必要なの。みんな、協力してくれる?」
沈黙のあと、パージが口角を上げる。
「……勝算はあるってことだな」
「もちろん。私が今まで損をしたこと、ある?」
「ないさ。わかった。目一杯残業して作ってやろうじゃないか」
「ありがとう、パージ」
彼はふっと視線を伏せ、吐き捨てるように笑った。
「今だから言うが、あの男は気に食わなかった。貴族のくせに毎度毎度、仕入れ金くすねるような真似しやがって」
ナタリーが頷く。
「私も旦那様が許せません。奥様がどれだけの思いで、この店を大きくしてきたか、見てきましたから」
「ありがとう、ナタリー」
その時、ミシェルが、ためらう指先で裾を引いた。
「あの……奥様。だったら見てもらいたいものが……」
「なに?」
少年の面影を残すその目に、夜明け前のような色が宿る。
◇ ◇ ◇
午後、作業台の上にそれは置かれた。
靴。
「なんだ、ミシェル。これって靴じゃねえか」
パージが面白そうに眉を上げる。
「はい。実は、試しに作ってみたんです。新商品にならないかなあって」
革の表面を光が滑り、縫い目が粒のように整列している。私は指で土踏まずの曲線をなぞり、踵を持ち上げ、手の中で灯りを変えてみる。
「……いいわ!」私は顔を上げた。
「靴も新商品に加えましょう」
空気が一段軽くなる。
「こ、こんな時に新商品なんて、大丈夫ですかね」
ナタリーの心配はもっともだ。
「こういう時だからよ。新商品で話題になるチャンス」
パージが腕を反らす。
「おいおい。助手がいなくなっちゃ、帽子の数が減るぜ」
「帽子の助手は私がやるわ。ミシェルは靴を作って」
「……試作品とは数が違うぞ? 重労働だ」
「絶対にやり遂げるわ」
ナタリーが手を挙げる。
「じゃあ、私がミシェルを手伝います」
「で、でもナタリーは店が。もちろん奥様も」
「商品が揃うまで、開店時間を短くする。それ以外の時間は全部、生産に充てる。勝負どきだもの」
「私も寝ずに頑張ります」
パージが笑う。
「わかった。じゃあやってやろうじゃねえか。お前ら、泣き言はなしだぞ!」
「はい!」
返事が揃い、胸の内側で火花が散った。
──私は家も金もジャックに奪われた。
でも、負ける気はしない。負ける理由も、ない。
◇ ◇ ◇
針が布を貫く音は、心臓の裏に直接届く。パージの手は早く、指示は的確だ。
「そこ、蒸しを強めに」「了解」
私は木型を抱え、リボンの張りを確かめ、床に出来上がった帽子を並べていく。額に汗が浮き、首筋をつたう。
──職人長パージは働き者。ミシェルとナタリーは、いつも前向き。
みんな、大好きな私の仲間。
こうして作る最高の商品を、素敵なお客様に届けるのだ。
ミシェルの手には、靴の木型。ナタリーが横から支える。
「そこ、押さえるね──」
「ありがとう」
つま先に体重が偏って、ナタリーがよろめく。
「きゃっ」
ミシェルの腕が反射で伸び、彼女の肩を支える。二人とも頬が赤く、視線が宙でぶつかって、同じ場所に落ちていく。私は口元だけで笑って、何も言わない。言葉は時々、未完成のものを壊すから。
「開店、いくわよ」
扉の鍵を回す手が、今朝よりも確かだ。
カトリーヌ夫人が最初の鈴の音に乗って現れる。
「まあ、忙しそうね」
「おかげさまで」
私は彼女に新しい帽子を見せ、そして、少し間を置いて靴を差し出した。
「これは……」
「新作です。夜会の帰り道に、踵があなたの味方をするように」
夫人の笑みは、私が良く知っている買ってくれる時のそれだった。
やった!
◇ ◇ ◇
その頃、別の通り。
「あなたのお店?」女の唇が、余裕と甘やかさで艶めく。
「ああ、正確には来月から私の店だがな」ジャックの笑いは、長椅子にふんぞり返る時の音だ。
「王都から既製品を大量に買い付けて、そこで販売する予定だ」
「うまくいくの?」
「私に任せておけ。君は私を信じていればいい」
「……ありがとう、ジャック。愛してるわ」
「ああ、私もだ」
女──ロザリーは、ふいに身を引く。
「本当に? 本当は前の奥様の方が良いんじゃなくって?」
「何を言う。あの女とは仕方なく結婚していたんだ」
彼の声は、空のグラスみたいに軽い。
「君に比べたら、あの女など妻としても女としても、ゴミ以下の存在だ」
ロザリーは笑う。綺麗な笑い方だ。
「言い足りないぐらいだ。あの女は私を甲斐性なしと侮辱したんだぞ」
「まあ可哀想なジャック。そんな人を、まだ店に置いてやるなんて、あなた慈悲深すぎない?」
「寒空に放り出すわけにはいかんから、猶予を与えただけさ。今頃、後悔で泣き暮らしているだろう」
「まあ」
「だが、私は容赦しないぞ。君と生まれてくる子供のため、期日がきたら追い出してやる」
ロザリーがふと窓外を指す。
「でも、ずいぶん人が並んでいるわね。そこがあなたのお店なんでしょ?」
「……何!?」
◇ ◇ ◇
店の前に行列。日傘の列。レースの花が通りに咲いている。
「ちょっとー、順番はまだですか!?」
「もう少しお待ちください。ご予約の分は必ずお売りしますから」
ナタリーが声を張り、紙束の予約表に目を走らせる。汗は光っているが、目は死んでいない。
馬車が軋み、地面に影を落とす。ジャックとロザリーが降り立ち、行列の熱に押し返されるように一歩引いた。
「ば、ばかな。これは一体……!」
ナタリーが彼を見つけ、内側から声を投げる。
「オーナー! 元・旦那様が……!」
「ちっ、あの野郎。よくも抜け抜けと!」パージが舌打ちする。
「大丈夫よ」
私は前に出た。行列のざわめきが二つに割れ、夏草を踏むみたいな匂いが立ちのぼる。
ロザリーが微笑む。
「ずいぶん繁盛しているわね。元奥様は泣き暮らしているはずじゃ?」
ジャックの喉仏が揺れる。言葉は見つからないらしい。
「久しぶりね、ジャックさん」
「……ガブリエル」
私は一歩、石畳の目地分だけ近づく。
「期日まで、まだあるはずよ。何の用かしら?」
彼の靴先がわずかに退く。ロザリーの視線が、私と彼の間を軽く往復し、次の獲物の匂いを嗅ぐ猫みたいに細くなる。
「あら、あなたは?」
女の唇がまた美しく歪む。名前は、まだ名乗られない。
扉の内側では、ミシェルの槌が、靴底を打っている。一定の拍。店の奥の針は、布を縫い続けている。規則的な音の上で、私の心臓も拍を刻む。
雨上がりの朝に似た匂いが、どこからともなく漂ってきた。
私は日傘を持たない手で、そっとスカートの皺をのばした。
行列はまだ伸びている。
足音は増えてくる。
世界は前へ進む。
私も、それに合わせて呼吸を整えるだけだ。