軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

ガブリエル洋品店

「離縁しましょう」

殴られた頬の熱がまだ引かないうちに、私は羊皮紙とペンを、夫の前へ滑らせた。

手は、不思議と震えていなかった。

——女が、しかも貴族の女が商売などすれば、世間は眉をひそめる。夫もそう言って、私を笑った。けれど、その”どうかしている女”の稼ぎを当てにしていたのは、いったいどこの、どなただったかしら。

私の名は、ガブリエル。

これは、私が私の人生を、自分の手に取り戻した日の話だ。

◇ ◇ ◇

その朝、ブレンナールは初夏の光に磨かれていた。

御者の掛け声、石畳を打つ蹄の音、街路樹がわずかに揺れて撒き散らす緑の匂い。行き交う人々の衣擦れが連なって、さらさらと耳に触れる。日傘の骨に陽が透け、レースに小さな火花のような光が散った。私はその光を肩に受けながら、通りの一角にある自分の店へ、視線を止める。

看板の金文字が、うっすらと朝露を弾いていた。〈ガブリエル洋品店〉。

ベルの音とともに扉を開け、店内へ入る。帽子の山、ショーケースの留め金、並べ終えたばかりの新作の手袋。自分で選んだ色のはずなのに、こうして並ぶと、いつもほんの少し驚いてしまう。これが今日の、私の武器なのだと。

ほどなく、見慣れた上等の馬車が店先に止まった。艶のある布地をさらりと揺らして降り立ったのは、背筋の通った、笑い方の柔らかな婦人だ。

「いらっしゃいませ、カトリーヌ夫人」

「新作が入ったと聞いたから、来てみたのよ」

夫人は入口で微笑み、うっすらと視線を巡らせる。

「次の社交会用に、見繕ってくださる?」

私は頷き、ローテーブルに用意していた箱を開けた。羽根飾りを低く寝かせた帽、深さの異なるクラウン、縁に細いリボンを巻いた控えめなもの。それから、今回は思い切って仕立てた日傘も。柄の先に小さな真鍮の輪を付けたのは、歩くたびに微かな音が鳴って、楽しいからだ。

「まあ、どれも素敵」

夫人の目尻がほどける。

「全部いただけるかしら?」

「もちろんです。ありがとうございます」

奥へ目配せすると、店員たちがすばやく動く。包み紙の音、リボンを引く指の音、布地が紙の上で一度だけ鳴らす、小さなため息。私はそのすべてが好きだった。ここでは、私の手から生まれたものが、誰かの装いの一部になっていく。

「女のあなたが、しかも貴族出身のあなたが商売なんて、最初はどうかしてると思ってたけれど」

夫人がお茶に口をつけ、目を細める。

「あなたのデザインが好きなのよ。周りもみんな、欲しがっているわ」

「光栄ですわ」

真正面から受け取るのは少し照れくさくて、私は笑った。けれど扉の前で、夫人の表情がふと曇る。

「でも——あなたの元旦那様は、どうなの。方々で遊び回っているようだけど」

私は、ほんの一瞬だけ呼吸を止めた。

「旦那様は旦那様。私は私、ですから」

そう答えるとき、口の中に金属の味がする。言い慣れた言葉は、時々、刃物に似ている。

「何かあったら、相談してね」

「ありがとうございます、カトリーヌ夫人」

馬車が通りへ滑り出ていくのを見送って、私は日傘を取った。陽は傾きはじめ、店の影が石畳の目をまたいで伸びている。

玄関の鍵を回すと、家の匂いがした。磨いた木、古い本、そして薄く残った煙草の匂い。鞄をテーブルに置いて、息をひとつ吐く。

「……ふう」

「ああ、ガブリエル」

背筋のどこかが、跳ねた。

振り返ると、貴族風の男が立っていた。広い肩、無造作に片手で提げたパイプ。ジャック。

「帰ったのか」

嬉しくはない。なのに、私の声は礼儀正しく整ってしまう。

「旦那様……珍しいですわね。こんな時間に、家にいらっしゃるなんて」

「たまには、君と夕食を共にしたくてね」

作り笑いの上手な人だ。私が台所に合図すると、ほどなくテーブルに食事が並んだ。玉ねぎをじっくり炒めたスープは、今夜はよくできている。

「なかなか上手いな、このスープ」

「……何か、お話があるんですよね」

声の影に、自分でも気づくほどの硬さが混じる。彼が私に穏やかに接してくるときは、決まっているのだ。

——金の話。

ジャックも私も、下級貴族の末子だった。継ぐべき領地はなく、形だけの家名が肩に乗っているだけ。結婚して間もなく、夫婦の営みは静かに消え、彼の興味は早々に別の場所へ移った。私は私で、自分の生き方を探しはじめた。

「最近、羽振りがいいそうじゃないか。新しく使用人を雇ったとか」

「ええ。店が、忙しくなりましたから」

「どうだろう、私の仕事にも、少し資金を……」

笑顔が、皮一枚ぶんだけ薄くなる。

私は黙って彼を見た。言葉にしない拒絶は、時に言葉よりよく伝わる。

結婚した頃から、彼は金を家に入れなかった。生活は逼迫し、私は侍女から教わっていた仕立てを、引っ張り出した。ミシンのハンドルを回し、布を送る。針の落ちる音に呼吸を合わせるうち、指先に生き物が宿る感覚を覚えた。試しに作った帽子を社交会に被っていくと、好奇の視線が集まった。その輪の中心で、カトリーヌ夫人の指先が縁をなぞり、笑みを広げた。評判はすぐ商売になり、私は小さな店を持った。布の手触りと、お客様の目の輝き。それが、私の毎日を形づくるようになったのだ。

「お金は、渡しませんよ」

私はスープの湯気越しに告げる。

「私の仕事は私の仕事。旦那様の仕事は旦那様の仕事——そう、約束したでしょう」

「いい馬がいるんだ。間違いなく走る。今投資すれば、大儲けだ」

身を乗り出す彼に、私はスプーンを皿の縁へ置いて、沈黙で返した。苛立ちが、彼の指先で跳ねる。

「誰が商売を認めてやったと思うんだ。女が、貴族が商売など……どれだけ私が恥をかいたか」

「私たちは、名ばかりの下級貴族です。見栄だけでは、食べていけません」

「元手を出したのは僕だ」

「あれは、父が持たせた持参金です」

皿の上で、スープが静かに温度を下げていく。

「……ガブリエル。金が、必要なんだ」

「そう申されても」

「子供が、できたんだ」

空気が、止まった。耳鳴りが遠くへ引いて、代わりに、血の音が近づいてくる。

「は?」

「恋人がいる。その間に、男の子ができた。僕の子として、育てたい」

怒りは、熱ではなかった。むしろ氷に似ている。中から静かに、硬くなっていく。

「それは、旦那様とその恋人の問題です。私には、関係がありません」

「だから——この家を、継がせたいんだ。その子を、私たちの養子に」

「継がせるべき領地など、私たちには無いでしょう」

「私の競馬事業と……君の店が、あるじゃないか」

私の中で、何かがはっきりと音を立てて、切れた。

彼は早口になる。君の商売は固いが上限がある、その収益をリターンの大きい競馬に回す、いつか勝ち馬が出れば資産ができる、世継ぎが要るだろう——言葉が、つるつると滑り出てくる。

「君は事業を私に任せ、家事に専念するんだ。乳母も雇う。心配はいらない」

椅子が床を擦る音が、やけに大きく響いた。私は、立っていた。

「馬鹿馬鹿しい、と言っているんですよ。旦那様」

彼の瞳孔が、すこし開く。

「なぜ私が、旦那様とどこぞの女との子を育てねばなりません。その乳母も、どうせ”どこぞの女”でしょう。その雇い賃を払うのは、私ですよね」

指先で、空気を差す。

「どこから、そんな発想が出てくるんです。旦那様は——アホなんですか」

「なんだと……言っていいことと、悪いことが——」

「離縁しましょう」

自分の声の輪郭だけが、やけにはっきりしている。

「離縁しましょう、と申し上げているんです」

「正気かい。結婚は神に祝福されたもので、僕たちの意思では——」

「時代は、変わっています」

この国では、破綻した夫婦に、裁判所は財産分与と離縁を認める。私たちはとっくに壊れていた。壊れたものを抱いて眠れるほど、私は器用ではない。

「この家は、差し上げます。私は、店をもらいます」

「行き遅れていた君を、もらってやったのは僕だぞ」

「私が結婚を遅らせたのは、亡き父の領地を手伝っていたからです」

「いずれにせよ、君を引き取ったのは僕だ」

「放蕩人に、何が引き取れます?」

音より早く、頬に熱が走った。視界が、一瞬白く跳ねる。殴られたのだと理解したのは、テーブルの角が腰に当たって、痛みが一つにまとまってからだった。

私は目を開き、ゆっくりと鞄を探った。羊皮紙と、ペン。テーブルに置いたその音が、彼の胸のあたりで止まる。

「今すぐ、離縁届にサインを」

「……随分、用意がいいな」

「実際に出す気は、ありませんでした。ですが、もう——このような屈辱的な結婚は、耐えかねます」

「屈辱だと。最近、君を抱かなかったことか」

彼の笑いは、浅くて、温度がない。伸びてくる手を、私は見た。軽く、けれど確かに、その手を払う。

「私に、二度と、触るな。ジャック・レ・バルサン」

ペン先が、羊皮紙を引っかいた。彼の名が、黒い線となって沈んでいく。

「いいんだな。家だけじゃない、この家の金も僕のものだ」

「ええ。使用人の給金は、払ったばかりです。在庫があれば十分。あとは、私の商才で稼ぎます」

「ふん。女が、商才ね」

その鼻で笑う音は、思いのほか軽かった。

雨の匂いがした。遠くで雷が喉を鳴らし、最初の一滴が窓を打つ。私は傘を取った。

「さようなら、旦那様」

玄関を開けると、雨脚はもう本物になっていた。日傘の上で粒が弾け、細かな震えが掌に伝わる。石畳が暗く濡れ、街灯が、夜を少しだけ早く連れてくる。

わからないなら、わからせればいい。女の力を——いや、違う。

私の、力で。

レース越しの世界は少し霞んで、それでも、前だけははっきりしていた。

これは、終わりじゃない。今夜、私はようやく、ただ一人の自分に戻ったのだ。手元に残ったのは、二つの手と、小さな店がひとつきり。

——上等だ。そこから、始めればいい。

私は踵を返さず、そのまま歩いた。雨の音が、足取りの数だけ、増えていく。