作品タイトル不明
手の震え
カトリーヌ夫人の屋敷を出ると、秋の風が頬を冷やした。
馬車に乗り込むと、ニッキーが言った。
「カトリーヌ夫人、心配ですね」
「夏風邪が長引いているだけですよ」
苦笑いで答えたが、声に力が入らなかった。
──夫人は強い人だ。私に心配をかけまいと、懸命に気丈に振る舞っていたのだろう。
別れ際、手を握った。その手が、震えていた。指の細さも、皮膚の薄さも、半年前とは違っていた。あれは夏風邪の手ではない。もっと長い時間をかけて、体の中の何かが消耗していく時の手だ。
──ダメ。変なことは考えない。
「でも、大丈夫ですよ。夫人は」
ニッキーの手が、そっと私の手に触れた。
「……ありがとうございます」
馬車が止まった。
「ロザリア用品店」
看板の文字だけが、違った。建物も、窓の配置も、扉の取っ手も、全部そのままだった。自分が毎朝開けていた扉が、今は別の名前を掲げている。
「名前以外は特に変わったところはありませんね」
「とりあえず入ってみましょう」
ニッキーが先に扉を押した。
「いらっしゃいませ!!」
大きな声が店内に弾けた。
カウンターの前に、若い女性が立っていた。輝くような笑顔だった。
「本日は何をお求めですか?」
「ど、どうも、こんにちは」
「あっ!」
女性の目が丸くなった。
「もしかして、ガブリエルさんですよね!?」
「え?」
「私、マリアと申します。一度、バルサン男爵の家でお会いしました!」
あの夜の記憶が戻ってきた。ジャックの居間に立っていた、ロザリーによく似た目の女。
「はい、そうなんです。私、ガブリエルさんの跡をついでこの店を任されてまして」
「し、失礼。あなたはロザリーさんの妹ですよね?」
ニッキーが割り込んだ。声に、慎重さがある。
「そうです……けど?」
マリアが少し首を傾けた。
「もちろん、姉がガブリエルさんと色々あったのは知っています。それに関しては妹として、心よりお詫び申し上げます。でも——」
突然、私の手が握られた。
「私、ガブリエルさんのファンなんです」
「ふぁ……ん?」
「はい! ガブリエルさんみたいになりたいと思って、今この店を頑張っているんです」
ニッキーが私を見た。私もニッキーを見た。
「今、ブレンナールにご滞在中なんですか?」
「そうだけど……」
「きゃー、良ければ色々お話し聞かせてください!」
私はしばらく、マリアの顔を見ていた。ロザリーに似ているが、目の色が違う。計算のない目だ。
「わかったわ」
「!」
「でも、他のお客様もいるし、今はご迷惑よね?」
「そうですよね。でも……」
私は紙を取り出し、宿の名前を書いた。
「今日はこちらに泊まる予定です。良ければ今夜、お会いできるかしら」
◇ ◇ ◇
ブレンナールの通りは、半年前と同じように石畳が続いていた。
「ちょっと戸惑いましたよね。あの子は一体?」
「……」
「ガブリエルさん?」
「あ、いや」
私は店の中を思い返していた。
「私たち以外にもお客さんはいましたし、店員たちもしっかり接客していました。間違いなく、あの店にはしっかりお客さんがついています」
「カトリーヌ夫人の話とは違いますね」
「流行は若い女性が作るものですから」
──夫人は半年間、夜会を開いていないと言っていた。半年もあれば、流行はいくらでも変わる。
「あのマリアという女性の手腕でしょうか?」
「おそらく……」
「あなどれませんね」
「はい」
しばらく歩いて、ふと気づいた。
「……って、あれ? ニッキーさんは今日、王都に戻るはずでは?」
「いえ」
ニッキーが前を向いたまま答えた。
「私も、同じ宿を取ることにしました」
「ロザリア商店は侮れない。ですよね」
「……はい」
宿のフロントで、ニッキーが名前を書いている。私はその横顔を、少し盗み見た。
──大丈夫、私たちはビジネスパートナー。それだけだ。
頭でそう繰り返しながら、なぜか心臓が落ち着かなかった。
廊下を歩きながら、ふと夫人の手の震えを思い出した。
消えようとしているものは、止められない。それを知っているから、人は今を大切にするのかもしれない。
私はその考えを、また振り払った。