作品タイトル不明
元いた家
「随分木型も作ったわね〜」
パージが黙々と木型を磨いている。帽子の型、靴の型、大小さまざまに並んだそれらは、四年分の仕事の形だ。
「しっかり磨いて、これからも使わんとな」
奥からミシェルとナタリーが出てきた。
「ガブリエルさん、奥の部屋の掃除も終わりました」
「ありがとう。じゃあ、そろそろ行きますか」
商品棚は空だった。カウンターも、棚も、壁の金具だけが残っている。
──今日は、店の引き渡し日だ。
夜会シーズンが終わり、この街での商売は手仕舞いした。私たちは四人で王都へ移転し、新しい商売を始める。
店の前に出ると、荷車が一台待っていた。四人分の荷物と、木型の箱と、針山と糸の束。それだけで、私たちの全部だった。
「この店をオーナーが始めて、四年経ったんですものね」
ナタリーが、建物を見上げながら言った。
「じゃあ、みんなは先に駅に行ってて。私は鍵をバルサンに渡してから行くわ」
「一人で大丈夫かい? あそこには変な奴らが彷徨いてるらしいぜ」
「大丈夫よ。今更、私にどうこうはないはずよ」
三人が荷車を引いて歩き出す。私はしばらくその背中を見送り、それから向きを変えた。
石畳が、靴の下で小さく鳴く。
──そう言えば、離縁してまだ三ヶ月しか経っていないのよね。
それなのに、結婚生活が遠い過去のように思える。あの家、あの夕食、あのスープの湯気。全部、ずいぶん昔のことのようだ。
バルサン邸の扉を、蝶番の金具ごと叩く。
「ごめんください。ガブリエルですが」
錠が外れる音。扉が開く。
「お待ちしておりましたわ、ガブリエルさん」
ロザリーが立っていた。
私はさりげなく、彼女の腹部へ視線を落とした。
ウエストが、締まっている。
──大きくなっていない?
ロザリーが、その視線に気づいた様子で微笑んだ。
「その節はご迷惑おかけしました」
「……」
「良ければ、お茶していきません?」
「ええ、では少しだけ」
廊下を歩きながら、ロザリーが振り返った。
「遠慮しないで。あなたの元いた家ですよ」
大広間の扉が開く。
テーブルにジャックが座っていた。マリアがお茶を注いでいる。壁にはヴィンセントとトーマスが寄りかかり、こちらを見ていた。
「随分賑やかになったわね」
私はジャックの前に立って言った。
「……ああ」
彼は目を逸らした。
──ガブリエルさん、バルサン男爵と再婚した女性のことを調べたのですが。
ニッキーの声が、記憶の中で再生される。
「調べた?」
「ええ、うちをはめようとした相手ですから、調べないわけにはいきません」
名前はロザリー。旧姓はアイヒンガー。
王都周辺の街で、流れの踊り子をしていたらしい。妹のマリアと二人で舞台に立ち、随分な人気だったとか。大勢の紳士が彼女に入れあげた。言いにくいが、あなたの元旦那さんもその一人だったのでしょう。
そして彼女には、酒場を仕切るチンピラたちと連んでいるという悪い噂も絶えない。それに──。
回想が、お茶の湯気の向こうに消えた。
「私、ガブリエルさんにお話ししなければならないことがあります」
ロザリーが、やや間を置いて切り出した。声に、湿り気が混じっている。
「なんでしょう?」
「私……赤ちゃん、流れちゃったんです」
私は少し、目を止めた。
「せっかく、ガブリエルさんに気を遣っていただいたのに……」
──じゃあね、ロザリー、元気な赤ちゃんを産むのよ。
あの日、日傘を渡しながら言った言葉が戻ってくる。
テーブルの向こうで、ロザリー一味がこちらを見ていた。薄い笑みが、それぞれの口元に浮かんでいる。
私はジャックをちらりと見た。
彼は目を逸らした。
──おそらくバルサン男爵の子供を孕んだというのも、嘘かと。
ニッキーの声が、また耳の奥で言った。
──財産目的で、バルサン男爵ははめられたのでしょう。
情けない顔のジャックと、回想の終わりが重なった。
私はカップを持ち上げた。お茶は、ちょうど飲み頃の温度だった。
「……そうでしたか」
それだけ言って、静かに口をつけた。