軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

もうどうでもいいのよ

「赤ちゃん、残念でしたね」

カップをテーブルに置いた。

ロザリーが微笑んでいた。テーブルの向こうで、一味の面々も同じ顔をしていた。薄く、静かに、何かを待つような笑い方だ。

私はその笑みを一通り見てから、椅子を引いた。

「そろそろ汽車の時間です」

立ち上がり、ジャックの前に鍵を置く。

「ジャック、約束通り店舗の鍵を返すわ」

彼の手が、小さく震えた。

「じゃあ、行くわね」

背を向けて、扉へ向かう。廊下の石床が、靴の下で静かに鳴いた。

道に出ると、初夏の風が頬を撫でた。

街路樹がわずかに揺れ、葉の間から光が散る。駅まで、あと少しだ。パージたちはもう待っているだろう。

──なぜこんなことに?

ジャックは椅子に残ったまま、その問いを何度も繰り返していた。

なぜ、ガブリエルと離縁したんだ。そもそも、なぜあんな女に溺れたんだ。

酒場で隣に座った時、確かにいい女だと思った。だが相手は平民だ。本来、貴族である自分が結婚する相手ではない。なのに、子供ができたという言葉に引けなくなった。ガブリエルの店から金を工面し、怒らせた。全てはロザリーと子供への愛のためだったはずなのに——籍を入れた途端、ロザリーは片っ端から財産を食い潰し始めた。訳のわからない男たちが家に入り浸り、犯罪の片棒まで担がされた。

そしてようやく気づいた。

ロザリーの腹は、ずっと平らなままだ。

子供など、最初からいなかったのかもしれない。そもそも、ロザリーを抱いたのはたった一度きり。それ以降、うまくかわされ続けていた。

──騙された。

誇り高きバルサン男爵家の自分が。

思えば、ガブリエルはいい女だった。頭が良く、優しく、気立がよく、文句も言わず自分に尽くしてくれた。あの手料理、あの店の繁盛、あの毅然とした目——。

──待てよ?

ジャックの頭に、一筋の光が差した。

──私が謝れば、助けてくれるんじゃないか?

椅子を蹴るように立ち上がり、部屋を飛び出した。

「どうしたんだいダンナは?」

「さあ?」

背後でそんな声がしたが、構わなかった。廊下を抜け、玄関を開け、石畳へ飛び出す。

通りの先に、見覚えのある後ろ姿があった。

「待ってくれ!」

ガブリエルが振り返った。

息を切らしながら駆け寄り、その前に立つ。膝に手をついて、息を整える。

「どうしたのジャック?」

「私が悪かった」

声が、思ったより小さく出た。

「私がどうかしてた。お前のような素晴らしい女に、私はなんて仕打ちを……」

ガブリエルが、少し首を傾けた。

「……いや、もう私、何も気にしてないから?」

ジャックは顔を上げた。

──そうか。ガブリエルも、私のところに戻りたいのだ。貴族夫人の立場など、二度と手に入らないしな。

「ならば、なんとかしてお前が家に戻れるよう……」

「もうどうでもいいのよ」

ガブリエルの声は、穏やかだった。

「貴方のことなんて」

「は?」

「私がこれからやりたいことに比べれば」

彼女は続けた。

「貴方への恨みも、過去も、なんの価値もないことだったわ」

ジャックは、言葉が出なかった。

怒っているのではない。悲しんでいるのでもない。ただ、本当に、どうでもいい、という顔だった。それが怒鳴られるより、泣かれるより、ずっと遠かった。

「じゃあ……」

ガブリエルが踵を返しかけて、ふと振り返った。

「あ」

「!」

「次、私を見ても——二度と声をかけないでね?」

石畳に、ジャックの膝がついた。

汽笛が、遠くで鳴った。

私はもう、振り返らなかった。

恨みも、未練も、不思議なくらい軽い。きれいに片がついたわけじゃない。ただ、それらが胸の中で占めていた場所を、もっと大きな何かが、横から押しのけてしまっただけだ。

何か、とは何なのか。

——正直、まだ自分でもわからない。

ただ、ひとつだけ確かなことがある。私はもう二度と、誰かの妻として、誰かに敷かれた場所で、息をひそめて生きるのはごめんだ。自分の手で、自分にしか作れない何かを作る。それが何なのかは、これから見つける。

たかが離縁された平民の女が、と笑う者もいるだろう。

後ろ盾もない。金もない。たった今、店の鍵まで自分の手で返してきたばかりだ。手元に残ったのは、空っぽの両手と、まだ形にならない渇きだけ。

それでも、構わない。

日傘を畳むと、初夏の光が一気に降ってきた。駅のホームで、パージたちがこちらに手を振っている。その向こうへ、線路はまっすぐ伸びていた。

私が本当に獲りにいくのは、こんな田舎町じゃない。あの、大きな街だ。

そこで私が、何を見つけるのか。

このときの私は、まだ何も知らなかった。