軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

揺れぬ大地と、船上の厨房

一週間ぶりに踏みしめる大地の感触は、俺たちが予想していたような「安らぎ」とは、少しばかり違っていた。

タラップを降り、石畳の上に立った瞬間、足元がぐらりと大きく傾いた気がしたのだ。

「……おっと」

俺は反射的に足を踏ん張り、体勢を立て直す。

もちろん、地面が揺れたわけではない。

揺れていたのは、俺たちの三半規管の方だ。

一週間もの間、絶え間なく波に揺られ続けてきた体は、今や「揺れている状態」こそが正常だと認識してしまっている。

だから、ピクリとも動かない陸地の方が、脳にとっては異常事態なのだ。

「うぅ……地面が……まだ波打っています……」

隣では、クリスが青い顔をして、生まれたての子鹿のように足を震わせていた。

船酔いからはようやく解放されたというのに、今度は「陸酔い」の洗礼を受けているらしい。

彼は近くにあった杭にしがみつき、情けない声を漏らす。

「師匠……世界が、まだ回っているような……」

「慣れろ。しばらく歩けば治る」

俺は苦笑しながら、その背中をバンと叩いて喝を入れた。

対照的に、ロウェナは水を得た魚のように――いや、籠から放たれた鳥のように元気だった。

「かたい! うごかない!」

彼女は石畳の上をバンバンと力強く踏み鳴らし、その確かな反動を楽しんでいる。

そして、俺の手をぐいぐいと引っ張った。

「えど! はやく! いこ!」

その瞳は、目の前に広がる新しい港町の景色に釘付けになっていた。

この中継地点の港は、出発地であるリューベックとはまた違う、独特の熱気を孕んでいた。

建物の壁は陽光を弾く白漆喰で塗られ、屋根には鮮やかな赤や青の瓦が使われている。

行き交う人々の肌は日に焼け、身につけている衣服も風通しの良さそうな薄手のものが目立つ。

どうやら、俺たちは船旅の間に、少しばかり南の、あるいは異国の風が吹く地域へと足を踏み入れたらしい。

出航までの時間は限られている。

俺たちは揺れる視界と格闘するクリスを引きずるようにして、活気に満ちた市場へと繰り出した。

市場に並ぶ品々も、やはりリューベックとは趣が異なっていた。

強烈な色彩を放つ南国の果実、見たこともない巨大な甲殻類の干物、そして、複雑な幾何学模様が彫り込まれた木工品や貝殻細工。

むわりと立ち込める空気には、甘い果実の香りと、スパイシーな香辛料の匂いが入り混じっている。

「わあ……!」

ロウェナは、トゲトゲした殻に覆われた赤い果実を指差し、目を丸くしている。

露店の主人が、半分に割ったその果実を差し出し、試食を勧めてきた。

恐る恐る口に含んだロウェナの顔が、パァッと輝く。

「あまい! つめたい!」

どうやら気に入ったらしい。

俺は銅貨を数枚支払い、その果実を絞ったジュースを三つ買った。

竹筒のような容器に入った冷たいジュースは、喉の渇きを心地よく癒やしてくれる。

一方、ようやく足元の感覚を取り戻し始めたクリスは、別の場所に目を奪われていた。

彼が熱心に見つめているのは、工芸品でも果物でもない。

地元の農家が持ち込んだであろう、泥つきの野菜や、麻袋に詰められた香草の山だ。

「……この芋、見た目は悪いですが身が締まっていますね。煮崩れしにくそうだ」

彼は一つを手に取り、真剣な眼差しで品定めを始める。

「こっちの葉野菜は、独特の苦味があるな……。油と相性が良さそうだ。魚のフリットの付け合わせにすれば、口の中がさっぱりするかもしれない」

その横顔は、もはや観光客のものではない。

船上の過酷な厨房で揉まれた、「料理人」としての顔つきだった。

「おいおい、荷物になるぞ」

俺がからかうように声をかけると、クリスはハッとしてこちらを向いた。

「あ、いえ! これはその……ガンツさんへの、お土産といいますか……」

言い訳がましく口ごもるが、その手は既に財布の紐を解いている。

「船の備蓄も限られていますから。新鮮な食材があれば、皆の士気も上がると思いまして」

そう言って彼は、自腹で大量の野菜や、瓶詰めの珍しい調味料を買い込み始めた。

俺はそんな二人の様子を、半ば呆れつつ、半ば微笑ましく見守っていた。

俺自身も、露店でこの地方特有の強い香りのする葉巻を数本と、手慰みになりそうな小さな木彫りのナイフを一本買った。

買い物をしながらも、俺の視線は無意識に周囲を行き交う人々を観察している。

スリや不審者が紛れていないか、場の空気におかしな淀みはないか。

元衛兵としての習性が、見知らぬ土地では自然と警戒レベルを引き上げてしまうのだ。

幸い、この港町は平和そのもので、俺たちの財布を狙うような不届き者は見当たらなかった。

両手いっぱいに荷物を抱えた俺たちは、出航の銅鑼が鳴る前に、『海燕丸』へと戻った。

タラップを登り、懐かしい木の甲板に足を下ろすと、不思議なことに、陸にいた時よりも足元が安定したような気がした。

どうやら俺たちの体は、すっかりこの「揺れる家」に馴染んでしまったらしい。

「ただいま戻りました!」

クリスは荷物を抱えたまま、一目散に船尾にある厨房へと走っていった。

「ガンツさん! 市場で面白い香草を見つけました! これ、今日の賄いに使いませんか!」

厨房の奥から、頑固なコックの怒鳴り声が聞こえてくる。

「あぁん? また勝手なもん持ち込みやがって! そんな草っ葉、どこの馬の骨とも分からねえぞ!」

「ですが、香りを嗅いでみてください! 先日の魚の残りアラと合わせれば、絶対に合います!」

「……チッ。悪かねえ匂いだ。おい、そっちの芋は皮を剥いとけ! 出航までに下ごしらえ終わらせるぞ!」

「はいっ!」

口では文句を言いつつも、ガンツの声には、弟子の帰還を歓迎する響きが混じっていた。

二人の間には、包丁と炎を通じて培われた、確かな信頼関係が出来上がっているようだ。

俺は甲板に残り、荷積みの最終確認をしているガイル船長に声をかけた。

「船長、手伝うことはあるか?」

「おう、エドか! おかえり。ちょうど手が足りねえところだ、そこの樽を船倉に運んでくれねえか」

俺は頷き、近くにいた船員と共に、水が入った重い樽を担ぎ上げる。

「よっと」

「さすが旦那、いい腰してるぜ!」

船員たちが気安く声をかけてくる。

最初の頃の「客人と護衛」という余所余所しい壁は、あの飛び矢魚の襲撃と、その後の宴を経て、完全に取り払われていた。

俺はただの護衛ではなく、この船を動かすチームの一員として、自然に受け入れられている。

そして、ロウェナもまた、彼女なりの仕事を見つけていた。

彼女はメインマストの陰、邪魔にならない高い木箱の上にちょこんと座ると、背負っていたリュートを取り出した。

ポロン、ポロン……。

軽快なリズムが、潮風に乗って甲板に広がる。

彼女が歌い出したのは、リューベックで覚えた船乗りたちの作業歌だ。

「エンヤ、コーラ! ほをあげろー!」

その可愛らしい歌声に合わせて、ロープを引く船員たちが掛け声を上げる。

「オーウ! エンヤコーラ!」

「そーれ、引け引け!」

重労働であるはずの荷積みが、彼女の伴奏のおかげで、どこか祭りの準備のような高揚感を帯びていく。

ロウェナはニコニコと笑いながら、船員たちと視線を交わし、時折手を振って応えていた。

やがて、出航を告げる鐘が、カランカランと高く鳴り響いた。

「出航だ! もやいを解け!」

ガイル船長の号令と共に、タラップが外され、太いロープが岸壁から離れる。

船体がゆっくりと動き出し、岸壁との間に海面が広がっていく。

その時、厨房の扉が勢いよく開き、エプロン姿のクリスが飛び出してきた。

顔には煤がつき、袖はまくられたままだが、その表情は充実感に満ちている。

「間に合った……!」

彼は額の汗を拭いながら、俺とロウェナの元へ駆け寄ってきた。

「師匠、ロウェナちゃん! 今夜のスープは期待してくださいよ! 最高の出来です!」

「ああ、楽しみにしてるぞ」

「くりす、おかえり!」

俺たち三人は船尾の手すりに並び、遠ざかっていく異国の港町を見つめた。

前回、リューベックを出た時のような、未知への不安や過度な興奮はもうない。

あるのは、これから続く長い航海への静かな覚悟と、この船での生活への心地よい慣れだけだ。

「次は、どんな街に着くんでしょうね」

クリスが、まだ見ぬ西の空を見上げて呟く。

「さあな。だが、どこの港だろうと、俺たちは変わらず進むだけだ」

俺は海風に吹かれながら、短くなった煙草を海へと弾いた。

『海燕丸』は帆いっぱいに風を孕み、白い航跡を長く引きながら、再び何もない蒼い海原へとその身を滑らせていった。

目指すは大陸西部、カレドヴルフ。

旅はまだ、半ばにも達していない。