軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

航跡の記憶と、海上の狼

リューベックの港を離れてから、いくつもの夜が過ぎ、季節が一つ巡ろうとしていた。

広大な海原を行く『海燕丸』の甲板に、スパイシーで食欲をそそる香りが漂っている。

昼下がりの穏やかな日差しの中、俺たち三人はマストの陰に座り込み、クリスが作った特製のドライカレーを頬張っていた。

「うん、美味い。前回の寄港地で仕入れた香辛料が効いてるな」

「はい! ガンツさんに教えてもらって、魚の臭みを消すために少し強めに炒めてみたんです」

俺の言葉に、クリスが嬉しそうにスプーンを動かす。

ロウェナも口の周りを黄色くしながら、「からい! でも、おいしい!」と笑顔を見せた。

揺れる船上での食事も、今ではすっかり日常の風景だ。

俺たちは皿を突きつつ、これまでの長い航海で立ち寄った港の記憶を語り合っていた。

「そういえば、最初に着いたあの大きな港……一週間も停泊しましたけど、楽しかったですね」

クリスが懐かしそうに目を細める。

交易のために長く滞在したその街は、市場も活気に溢れ、人々も親切だった。

ロウェナは大道芸人の手品に目を輝かせ、俺たちは珍しい南国の果物を食べ歩いたものだ。

「でも、その次の港は最悪だったな」

俺が苦笑いしながら言うと、二人も同時に顔をしかめた。

水と食料の補給のためだけに立ち寄った、中規模の港。

滞在時間は半日ほどだったが、酒場の親父は泥のようなエールを法外な値段で売りつけようとしたし、街全体の治安も悪く、早々に逃げ出した記憶しかない。

「……わたしは、そのあとの、ちいさな港がすき」

ロウェナがぽつりと呟く。

それは、まだ名前もないような、新しくできたばかりの開拓港だった。

桟橋が一つあるだけの簡素な場所だったが、そこで働く人々は皆、希望に満ちた目をしていた。

「ああ。何もなかったが、これから大きくなるっていう熱気があったな。いつかまた、あの港がどうなっているか見に来たいもんだ」

俺が言うと、近くで干し肉を齧っていた古株の船員が、ニカッと笑って会話に加わってきた。

「違ぇねえ。港ってのは生き物だ。俺が昔行った北の海の港なんざ、冬は氷に閉ざされちまうが、春になると氷を割って船を出すんだ。そりゃあ勇壮な眺めだぞ」

「氷の海……! そんな場所もあるのですね」

クリスが感心し、ロウェナは「こおりのふね!」と目を輝かせる。

船乗りたちの語る未知の世界の話は、退屈な航海における何よりの娯楽だった。

食事を終えると、それぞれの持ち場へと戻る時間だ。

「じゃあ、行ってきます!」

クリスは皿を重ねて立ち上がると、意気揚々と厨房の方へ走っていった。

ガンツの怒鳴り声にも負けず、今や彼は船員たちの胃袋を支える頼もしい戦力となっていた。

ロウェナは、ベテランの航海士の元へとトコトコ歩いていく。

「おじちゃん、きょうは、くもがおおいね」

「おう、よく見てるな嬢ちゃん。だが、あの雲の形を見ろ。あれは風が強い知らせだ」

彼女は今、海の男たちから天候の読み方を教わっている。

鳥の飛び方、風の匂い、波のうねり。野生の勘だけではない知識を吸収し、「あしたは、あめ?」と予言しては、船員たちを驚かせていた。

そして俺は、甲板の広くなった場所で、非番の船員と木剣を構えて向かい合っていた。

「そこだッ!」

船員が鋭く踏み込んでくる。

俺はそれを半歩下がるだけで躱し、木剣で相手の脇腹を軽く叩いた。

「足元がお留守だぞ。波が来たら、逆らわずに膝で吸収しろって、あんたが教えてくれたんだろ?」

「くぅ~ッ! 一本取られた!」

船員は悔しそうに笑う。

俺は彼らから揺れる船上での足捌きを学び、代わりに剣の技術を教える。

互いに技術を高め合うこの時間は、俺にとっても悪くない日課となっていた。

そんな穏やかな日常が、唐突に破られたのは翌朝のことだった。

一帯を包み込んでいた濃い朝霧の中から、ぬっと黒い船影が現れたのだ。

「敵襲ッ! 右舷より接近! 海賊旗だッ!」

見張り台の鐘が乱打される。

霧を切り裂くように現れたのは、武装した高速船。

マストには血塗られた剣の旗印が翻っている。

「総員、戦闘配置! 客人は下がってろ!」

ガイル船長が怒号を飛ばし、自ら舵輪を握って回避を試みる。

だが、敵は手慣れていた。

逃げる間もなく無数の鉤縄が撃ち込まれ、ガツンッ! という衝撃と共に船体が強制的に引き寄せられる。

「ロウェナ、来い!」

俺は即座にロウェナを抱え上げると、船尾にある船長室へと走った。

「えど! かいぞく?」

「ああ。だが心配するな」

俺はロウェナを部屋の中に押し込み、真剣な目で言い聞かせる。

「いいか、何があっても、俺かクリスが迎えに来るまで、ここから一歩も出るな。鍵をかけて、じっとしてろ」

ロウェナは不安げに唇を噛んだが、俺を信じてこくりと頷いた。

重厚な扉を閉め、中から鍵がかかる音を確認する。

その直後、ドッと甲板に蛮声が響き渡った。

「ヒャッハー! 商船だ! 皆殺しにして奪いつくせ!」

板を渡して乗り込んできた海賊たちが、雪崩のように押し寄せてくる。

『海燕丸』の船員たちも武器を取って応戦するが、殺しを生業とする無法者たちの勢いは凄まじい。

「くそっ、数が多いぞ!」

ガイル船長が舵輪を守りながら叫ぶ。

指揮官がやられれば、船は終わりだ。

俺は愛刀を抜き放ち、船長室の扉の前、そして船長の背中を守る位置に仁王立ちになった。

「オラァ! そこをどきな!」

海賊が三人、同時に斬りかかってくる。

俺は一歩も動かない。

右からの刃を剣で弾き、左からの突きを半身で躱し、正面の敵の顔面に裏拳を叩き込む。

あくまで「守り」に徹する戦い。

ここを突破されれば、ロウェナと船長が危険に晒される。

俺は迎撃範囲に入った敵だけを的確に斬り伏せ、その場に死体のバリケードを築いていった。

「チッ……なんだこいつは! 崩れねぇぞ!」

海賊たちが攻めあぐねていると、船内からドタドタと激しい足音が近づいてきた。

「師匠ーーッ!」

厨房の方角から、クリスが飛び出してきた。

手には血のついた長剣、エプロンは煤と返り血で汚れている。

どうやら、裏口から侵入してきた敵を片付けてきたらしい。

「遅くなりました! 加勢します!」

クリスは俺の隣に滑り込み、敵を牽制する。

「いいタイミングだ、クリス!」

俺は敵の剣を弾き返しながら、短く指示を飛ばした。

「ここは任せる! 船長とロウェナを死守しろ! 一歩も通すなよ!」

「はい! この命に代えても!」

クリスが俺と入れ替わるように前に出て、防御の構えを取る。

その目には迷いがない。

今の彼なら、この場を任せられる。

「――よし」

俺は一歩、前に踏み出した。

守るべき対象を背中から切り離した瞬間、俺の全身から重い枷が外れる。

「さて……散らかしてくれたな」

俺は近くのマストから垂れ下がるロープを掴んだ。

船員との手合わせで掴んだ、波のリズム。船の揺れ。

それを味方につけ、俺は甲板を蹴って宙へと舞い上がった。

「なっ!?」

海賊たちが呆気にとられて見上げる中、俺は頭上から急降下し、一番奥にいた弓兵の顔面を蹴り飛ばした。

着地と同時に、波の揺れに合わせて体を滑らせる。

予測不能な軌道で敵の懐に潜り込み、剣閃を走らせる。

斬る、蹴る、投げる。

もはや防戦ではない。一方的な蹂躙だ。

ロープを使って立体的に飛び回り、死角から死角へと移動しながら、次々と海賊たちを海へと叩き落としていく。

「うわぁぁぁッ!」

「ば、化け物かコイツ!?」

恐れをなして後ずさる部下たちを押しのけ、海賊船の船長らしき男が躍り出てきた。

「ええい、だらしない! 俺が相手だ!」

男は自慢のカトラスを構え、自信満々に斬りかかってくる。

だが、遅い。

俺は剣を振ることすらせず、半歩踏み込んで、すれ違いざまに柄頭を男の顎に叩き込んだ。

ガチンッ!

脳を揺らされ、膝をつく船長。

その喉元に、冷ややかな切っ先を突きつける。

「……失せろ。次は心臓だ」

俺の殺気に、船長は顔を引きつらせ、悲鳴を上げて自船へと逃げ帰っていった。

「た、退却だぁーッ!」

蜘蛛の子を散らすように逃げ出した海賊船が、霧の向こうへと消えていく。

甲板には、勝利の歓声が響き渡った。

戦闘が終わり、日が暮れる頃には、船上の後片付けもあらかた終わっていた。

船の損傷は軽微、怪我人も出たが、幸い命に関わるほどではない。

その夜は、甲板で海賊撃退を祝う盛大な宴が開かれた。

ランタンの灯りが揺れる中、大皿に盛られた料理が次々と運ばれてくる。

「おうクリス! この煮込み、最高に美味いぞ!」

「へへっ、厨房を守りきった甲斐がありましたね!」

クリスが腕を振るった料理に、船員たちが舌鼓を打つ。

戦いの緊張から解放された男たちは、いつも以上に陽気で、酒が進んでいた。

宴の中央では、ロウェナがリュートを奏でていた。

軽快なリズムに合わせて、船員たちが肩を組み、足を踏み鳴らして歌う。

ロウェナも満面の笑みで、彼らの歌声に合わせてハミングを乗せる。

「旦那! あんたのおかげで助かったぜ!」

「あの動き、凄かったなぁ! 空を飛んでるみたいだったぞ!」

俺の周りにも、酒を持った船員たちが集まってくる。

ガイル船長が、上機嫌で俺の肩を叩いた。

「いやあ、大したもんだ。あんたたちを乗せて本当に良かったよ。最高の護衛であり、最高の仲間だ」

その言葉に、俺は照れくささを隠すようにエールを呷った。

宴は深夜まで続き、笑い声と歌声が星空の下に響き渡った。

誰もが、今日の勝利を、そしてこの船での絆を噛み締めていた。

西の大陸、ヴァンデルまではまだ距離がある。

だが、この頼もしい仲間たちと一緒なら、どんな嵐も乗り越えていけるだろう。

俺は夜風に吹かれながら、水平線の彼方を見つめた。

まだ見ぬ大地への期待を胸に、『海燕丸』は力強く波を蹴立てて進んでいく。