軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

閑話 湯気と背丈と、始まりの風

立ち上る白い湯気が、天井の太い梁をぼんやりと霞ませていた。

温かな湯の張られた木桶の湯船に肩まで浸かると、全身の強張りがふっと解けていく。

鼻をくすぐるのは、ほのかに甘い野花の香りがする石鹸の匂い。

クリスと一緒に街の薬師を巡り、『肌に優しいものを』と探し当てた特別な品だ。

ちゃぷん、と水面を揺らしながら、私は自分の両手を目の前にかざした。

手のひらを広げ、そしてゆっくりと握り込む。

指先から滴る雫が、ポトポトと規則正しい音を立てて湯船に落ちていく。

(……ずいぶん、大きくなったなぁ)

昔はもっと小さくて、丸っこくて、エドの大きな手の中にすっぽりと隠れてしまうような手だった。

今は指の節もしっかりと形作られ、爪の輪郭も大人びてきている。

視線を下げれば、お湯を通して自分の身体の輪郭が揺らいで見えた。

ただ細いだけだった手足は、すらりと長く伸びている。

胸元も、ほんの少しだけふっくらとした丸みを帯び始めていて、古い服はもう胸のあたりが少し窮屈になってしまっていた。

黒葉(こくよう) の森でエドに拾われた頃の私は、本当に小さな子供だった。

言葉もろくに話せず、右も左もわからず、ただ彼のマントをきつく握りしめているだけだった。

旅の途中の宿屋では、いつもエドやクリスと一緒にお風呂に入っていた。

エドのゴツゴツとした手で乱暴に頭を洗われ、泡が目に入って泣きべそをかいたことも、今となっては胸の奥が温かくなる記憶だ。

学校に通いたいと言って、領都のこの家で暮らすようになってから、私は一人でお風呂に入るようになった。

最初は、広く感じる湯船が少しだけ怖くて、烏の行水のように早く上がってしまっていた。

けれど今は、この一人きりの静かな時間が、一日の疲れを洗い流す大切なひとときになっている。

お湯から立ち上がり、手ぬぐいで丁寧に身体の滴を拭い取る。

脱衣所に用意しておいた清潔な寝巻きに袖を通すと、洗い立ての布の匂いと微かな陽だまりの香りが、肺の奥まで満たしていった。

濡れた金色の髪をタオルで包み込みながら、居間へと続く扉のノブを回す。

「あ、ロウェナちゃん。湯加減はどうだった?」

暖炉の火のそばで分厚い本を読んでいたクリスが、パタンと表紙を閉じて視線を向けてきた。

彼の穏やかな声は、昔から少しも変わらない。

「うん、とっても気持ちよかった! この石鹸のおかげでお肌もすべすべだよ」

「それは良かった。師匠はまだギルドで残業みたいだね。夕飯の準備、一緒にしようか」

「うんっ!」

私は大きく頷き、台所へと向かう。

五年間。

領都での生活は、毎日がこんなふうに穏やかで、静かに時が流れていた。

翌朝。

澄み切った青空から降り注ぐ陽光が、石畳の道を白く輝かせていた。

私は、濃紺のブレザーとチェック柄のスカートという、第二学校の中等部指定の制服に身を包み、革製のカバンを揺らしながら歩いていた。

「おはよう、ロウェナ!」

「あ、ロウェナちゃん。今日の小テスト、範囲どこだか覚えてる?」

錬鉄の立派な校門をくぐると、少し年上のクラスメイトたちが次々と声をかけてくる。

「おはよう! 小テストは歴史の第四章からだよ。建国期から、王都の移転まで!」

足を止めることなく答えながら、私は自分の教室へと向かう。

私は今、中等部の最上級生に混じって授業を受けている。

いわゆる『飛び級』という制度だ。

旅の中で、エドやクリスから文字や計算を教わっていたおかげで、基礎的な学力は十分についていた。

それに、私は耳が良い。先生が一度口にした言葉は、不思議と頭の中にすっと刻み込まれていくのだ。

教室に入ると、チョークの粉の匂いと、インクの少しツンとする匂いが鼻を突く。

黒板には、昨日の放課後に誰かが描いた落書きがまだ薄っすらと白く残っていた。

自分の席に着き、カバンから分厚い教科書を取り出す。

(今日は……薬学と、大陸地理学か)

授業が始まると、私はノートにカリカリと羽ペンを走らせる。

大陸地理学の授業で、大陸西部の『ヴァンデル』や『カレドヴルフ』の名前が出た時、私はこっそりと口元を綻ばせた。

教科書には『産業が発展した鉄と蒸気の都市』としか書かれていない。

けれど、私にはあの街のうだるような熱気や、蒸気機関車のすさまじい咆哮、そして空を覆う黒い煙の匂いまでもが、肌を通して鮮明に蘇ってくる。

私にとっての地理学は、単なる暗記科目ではない。

エドとクリスと一緒に歩いた、あの埃っぽくも輝かしい冒険の足跡を辿る時間なのだ。

昼休みには、中庭の芝生に座って友人たちとお弁当を広げる。

色とりどりのおかずが並ぶ中、私がクリス特製の『香草焼き肉』を頬張ると、周りの女の子たちがゴクリと喉を鳴らした。

「ロウェナのお弁当、いつも本当に美味しそうだよね……」

「お肉の脂がキラキラ光ってるよ……!」

「えへへ、美味しいよ! クリスはね、料理の天才なんだから!」

私は胸を張りながら、ジューシーな肉の塊を口いっぱいに頬張った。

噛みしめるたびに、市場で買ったスパイスの香りと、肉の濃厚な旨味が口の中に弾け飛ぶ。

学校での生活は、毎日が新しい発見に満ちていて、決して飽きることはなかった。

放課後を告げる鐘の音が、夕暮れの街に反響する。

友人たちに手を振って別れた私は、家には帰らず、まっすぐに冒険者ギルドの建物へと向かった。

重厚なオーク材の扉を両手で押し開けると、むわっとした熱気と、エールの酸い匂い、そして男たちの怒声や笑い声が一気に押し寄せてくる。

「おおっ! ロウェナちゃんじゃないか!」

「学校終わったのか? こっち来て串焼きでも食ってけよ!」

荒くれ者の冒険者たちが、私を見るなりパッと顔を輝かせ、だらしない笑顔を向けてくる。

「こんにちは! 今日もみんな元気だね!」

私が手を振り返すと、酒場スペースのあちこちから「おうっ!」「ロウェナちゃんの声で疲れが吹っ飛んだぜ!」と野太い歓声が上がる。

領都ギルドの受付嬢であるエミリーさんが、カウンターの奥から苦笑いしながら手を振ってくれた。

私は酒場の喧騒を抜け、ギルドの裏手にある訓練場へと向かう。

土埃が舞う広場の隅で、エドとクリスが若手冒険者たちの指導をしているのが見えた。

しかし、エドはまだ書類仕事が終わっていないのか、若手たちに基礎体力作りを命じたまま、受付の方へと歩き去っていくところだった。

手持ち無沙汰になった私は、訓練場の反対側――的当てが並ぶ射撃区画へと足を向けた。

そこでは、革鎧を着た女性の 狩人(レンジャー) が、黙々と弓を引き絞っていた。

中堅パーティに所属する弓使い、セリアさんだ。

ピュンッ!

空気を裂く鋭い音と共に放たれた矢が、三十歩先の藁の的に深く突き刺さる。

「すごい……ど真ん中だ」

私が思わず呟くと、セリアさんは弓を下ろし、栗色の髪を揺らして振り返った。

「あら、ロウェナちゃん。学校帰り?」

「うん! セリアさんの矢、いつも本当に真っ直ぐ飛んでいくね」

「ふふっ、これでおまんま食べてるからね」

セリアさんはウインクをすると、足元に置いてあった小ぶりな 短弓(ショートボウ) を拾い上げ、私の方へと差し出した。

「どう? ロウェナちゃんも一度やってみる? これは私が新人の頃に使ってた、張りの弱い弓だけど」

「えっ! いいの?」

私は弾かれたように顔を上げ、カバンを地面に置いて駆け寄った。

弓を受け取ると、滑らかに磨かれた木肌の感触と、手入れに使われている蜜蝋の匂いがした。

見た目以上にずしりとした重みがある。

「いいかい、ロウェナちゃん。弓はね、腕の力だけで引こうとしちゃ駄目だ。すぐ腕がパンパンになっちまう」

セリアさんが私の背後に回り、肩と腰の位置を軽く叩いて修正していく。

「足を肩幅に開いて、的に対して半身になる。そう、その姿勢。そして、弦を引く時は……肩甲骨を寄せるように、背中の大きな筋肉を使うんだ」

「背中の、筋肉……」

言われた通りに矢番えし、ぐっ、と弦を引く。

(……っ、重い!)

張りの弱い弓だと言っていたのに、弦が指先に食い込み、ミシミシと木の軋む音が耳元で鳴る。

右腕が小刻みに震え、矢先が定まらない。

「焦らなくていい。息を深く吸って、的に集中して……」

セリアさんの静かな声に従い、私は肺いっぱいに空気を吸い込んだ。

的の中央にある、赤い印だけを見つめる。

その時だった。

訓練場に、ヒュォォッと一陣の風が吹き込んだ。

地面の砂埃が舞い上がり、横方向への気流が生まれる。

(あ……風の向きが、変わる)

私の異常なまでに鋭い聴覚と、肌に触れる空気のうねりが、風の軌道を正確に教えてくれた。

このまま真っ直ぐに放てば、矢は風に流されて左へ逸れてしまう。

私は無意識のうちに、狙いを的の中央からわずかに右へとズラした。

そして、風が一番強く吹いたその瞬間に、弦を握る指をふっと離す。

ビュンッ!

矢は風の壁にぶつかるように飛んでいき――空中で見事に軌道を変え、的の中央からわずか数センチ横の藁にドスッと突き刺さった。

「……えっ」

セリアさんが、目を丸くして息を呑む音が聞こえた。

「今の……わざと風上に向けて撃ったの? 初めて弓を引いて、風の動きを読んだって言うのかい……?」

「う、うん。なんとなく、風の音がそっちに吹くって教えてくれたから」

私が照れくさそうに頭を掻くと、セリアさんは信じられないものを見るような目で私を見つめ、やがて大きなため息を吐いた。

「エドの旦那やクリスの坊ちゃんの異常さは知ってたけど……この子もとんでもない才能の塊じゃないか。恐ろしいパーティだよ、全く」

「おい。俺の娘を勝手にレンジャーに勧誘するな」

背後から、低い声が響いた。

振り返ると、書類仕事を終えたエドが、腕を組んでジロリとセリアさんを睨みつけている。

その隣には、槍を手にしたクリスが苦笑いを浮かべて立っていた。

「わっ、旦那! ち、違うよ! ちょっと遊びで引かせてみただけで……!」

「いいから、お前は自分の訓練に戻れ。ロウェナ、こっちに来い」

エドはセリアさんを追い払うと、私に向かって革袋から短剣を一本取り出し、放り投げてきた。

パシッ、と空中でそれを受け取る。

ずしりとした鉄の重みと、革巻きの柄の冷たさが掌に伝わってきた。

「弓も悪くないが、基礎の投擲だな」

私は制服のブレザーを脱ぎ、ブラウスの袖を捲り上げた。

「まずは構えからだ。さっきの弓と同じで、手首だけで投げるな。足首から腰、そして肩へと力を連動させろ」

エドの指導は、手取り足取りといった優しいものではない。

的の前に立たされ、何度も何度も繰り返し短剣を投げさせられる。

カァンッ!

的を外し、短剣が石の壁に弾かれてオレンジ色の火花を散らす。

「腕が下がってる。脇を締めろ!」

「はいっ!」

私は唇を噛み締め、こぼれ落ちた短剣を拾い上げて再び構える。

女の子が武器を持つことを、学校の友人たちは不思議がるかもしれない。

でも、私は知っている。

この世界が、決して安全で優しいだけの場所ではないことを。

黒葉の森の深い闇や、容赦なく襲いかかってくる魔物の恐ろしさを。

エドやクリスが、いつも私を守ってくれるとは限らない。

もし二人に何かあった時、私がただ震えているだけの足手まといになるわけにはいかないのだ。

「次は僕が相手をしましょう。短い棒を使った、槍の受け流しの応用です」

投擲の練習が終わると、今度はクリスが木製の短い棒を手渡してくれた。

クリスの指導は、エドとは対照的に理論的でわかりやすい。

相手の力のベクトルをどう逸らすか、体重の移動をどう使うかを、丁寧に言葉にして教えてくれる。

トンッ、と木棒が打ち合う鈍い音が響く。

「そうです、その角度です。力で押し返すのではなく、相手の力を利用するんです」

汗が額を伝い、制服のブラウスが背中に張り付く。

筋肉が熱を持ち、呼吸が荒くなる。

それでも、私は剣を振るう二人の背中を思い出しながら、必死に食らいついていった。

(もっと、強く。もっと、二人の隣に相応しい自分に……!)

すっかり日が落ち、夜の帳が領都を包み込む頃。

私たちは、いつものように三人で食卓を囲んでいた。

今日の夕食は、エドが腕を振るった『白身魚の香草焼き』と、たっぷりの根菜が煮込まれたスープだ。

カリッと焼き上げられた魚の皮にナイフを入れると、中からふっくらとした純白の身が湯気と共に顔を覗かせる。

レモンのような酸味のある木の実の果汁を絞って口に運ぶと、爽やかな香りと魚の脂の甘みが絶妙に絡み合い、とろけるような美味しさが広がった。

「ん〜〜っ! 美味しいっ!」

私が頬を抑えて身悶えすると、エドが満足そうに鼻を鳴らした。

「たくさん食えよ。成長期なんだからな」

「ロウェナちゃん、最近本当に背が伸びましたね。この間新調した制服も、もう袖が少し短くなっているんじゃないですか?」

クリスが、私の手首のあたりを見ながら目を細める。

「えへへ、そうなの! もうすぐ、クリスの肩くらいまで届くかも!」

「それは楽しみですね。でも、あまり急いで大人にならなくてもいいんですよ」

クリスは少しだけ寂しそうな、けれど温かい眼差しを私に向けた。

スープの温かさが、食道を通って胃の腑に落ちていく。

そのじんわりとした熱が、私の身体の隅々にまで染み渡っていくのを感じた。

卒業まで、あと少し。

学校での日々は終わりを告げ、私たちは再び、あの果てしない旅路へと足を踏み出す。

だけど、不安はない。

エドがいて、クリスがいる。

そして、今の私は、ただ守られるだけの小さな子供じゃない。

窓の外から、冷たい夜風が微かに吹き込んでくる。

それは、新しい旅立ちを祝福する、始まりの風のように感じられた。