作品タイトル不明
迷宮の書架と、行間の意味
学術都市ソフィアの中心には、この街の象徴とも言える巨大な建物が鎮座している。
『ソフィア大図書館』
大陸中から集められた書物が眠る、知の迷宮だ。
俺たちは遺跡での一件を経て、この図書館を見学していくことにした。
重厚な扉を押し開けると、古紙とインク、そして静寂が混ざり合った独特の匂いが鼻をくすぐる。
天井は遥か高く、壁一面を埋め尽くす本棚が、まるで森のように奥へと続いている。
「すごい……! ほんがいっぱい!」
ロウェナが声を上げそうになり、慌てて口元を手で覆った。
入り口の立て看板を見て、小声で読み上げる。
「『せいしゅく……に、ねがいます』……『いんしょく、きんし』」
「よく読めたな。旅の間、勉強した甲斐があった」
俺が頭を撫でると、ロウェナはえへへと嬉しそうに笑った。
この旅の間、俺とクリスで少しずつ文字を教えてきた成果だ。
看板や注意書き、子供向けの簡単な絵本程度なら、今の彼女は一人で読むことができる。
「よし、少し中を探検してみるか」
俺たちは、圧倒的な書物の森へと足を踏み入れた。
◇
児童書コーナーには、各地の民話や冒険譚が並んでいた。
ロウェナは普段なら絵の多い薄い本を選ぶのだが、今日は違った。
「わたし、これにする」
彼女が手に取ったのは、『少年騎士と風の精霊』というタイトルの、挿絵が少ない物語の本だった。
「おっ、少し難しいのに挑戦するか?」
「うん。クリスみたいに、じの多い本もよめるようになりたいの」
ロウェナはやる気満々で、閲覧机に本を広げた。
俺とクリスは少し離れた席に座り、彼女の奮闘を見守ることにした。
ロウェナは指で文字を追いながら、小さく口を動かしている。
文字自体は読めているようだ。つっかえながらも、音読は進んでいる。
だが、数ページ進んだところで、彼女の眉間に深い皺が寄った。
「……?」
首を傾げ、ページを戻り、また読み直す。
そして、助けを求めるように俺たちの方を振り返った。
「エド、クリス。……ここ、いみがわかんない」
俺たちが近づいて覗き込む。
彼女が指差したのは、主人公が強敵を前にしたシーンの一文だった。
『彼は恐怖を飲み込み、腹をくくって剣を抜いた』
「どうした? 読めてるじゃないか」
「うん、よめるけど……。『きょうふ』って、たべものよくわかんない。それに『はらをくくる』って、おなかにヒモをまくの? そんなことしたら、くるしくてたたかえないよ」
ロウェナは真剣な顔で心配している。
俺は思わず吹き出しそうになったが、クリスが優しくフォローに入った。
「あー、なるほど。ロウェナちゃん、それは『比喩』と言ってね、本当に食べるわけじゃないんだ」
「ひゆ?」
「そう。言葉の綾というか……」
説明しようとするクリスだが、ロウェナは腑に落ちない顔だ。
文字通りの意味しか知らない彼女にとって、慣用句や比喩表現は「嘘が書いてある」ように見えるのだろう。
「それはね、『覚悟を決めた』っていう意味だよ」
不意に、隣の机から声がかかった。
見れば、十歳くらいの少年が、分厚い本から顔を上げてこちらを見ていた。
この街の学校に通う学生だろうか、制服を着ている。
「かくごを、きめる?」
「うん。『腹をくくる』は、逃げないぞって心を決めることの言い換えなんだ。昔の人は、お腹に魂があると思ってたから、そこを帯でギュッと締めて気合を入れたのが始まりなんだって」
少年は、自分の腹帯を締める仕草をして見せた。
「へぇー! そうなんだ!」
「あと『恐怖を飲み込む』は、怖くて叫び出しそうなのを、ゴクンって我慢したってこと。……言葉にはね、文字のままの意味と、裏側の意味があるんだよ」
少年は少し得意げに、でも親切に教えてくれた。
「うらがわのいみ……」
「そう。パズルみたいで面白いだろ? このルールが分かると、もっと物語が面白くなるよ」
「すごい! おにいちゃん、ものしり! どうしてそんなことしってるの?」
ロウェナが目を輝かせて尋ねる。
「え? ああ、学校で先生に習ったんだ。『国語』の授業でね」
「がっこう……」
ロウェナは口の中でその言葉を転がした。
ただの文字の羅列が、意味を持った情景として浮かび上がってくる。
その「秘密のルール」を教えてくれる場所。
彼女の中で、ぼんやりとしていた「学校」という場所の輪郭が、少しだけはっきりとしたようだった。
◇
楽しそうに少年と話すロウェナを見ながら、俺はクリスに小声で話しかけた。
「……やっぱり、餅は餅屋だな」
「師匠?」
「俺が教えてやれたのは、『毒』とか『立入禁止』とか、契約書の金額とか……生きていくためのサバイバル術としての文字だ。看板が読めりゃ死なない、ってな」
俺は苦笑して、ロウェナの背中を見た。
「だが、物語を楽しんだり、誰かの感情を深く理解したりするための『教養』としての言葉は、俺には教えきれん。……あいつの世界を広げるには、学校って選択肢も悪くないかもしれん」
ふと、以前のことを思い出す。
まだ王都を出てすぐの時、ロウェナの将来を案じた時に、漠然と「普通の子供としての幸せ」を考えたことがあった。
あの時はまだ遠い先のことだと思っていたが、こうして実際に知識の壁にぶつかり、それを乗り越えようとする姿を見ると、現実味を帯びてくる。
(領都に着いたら、本気で考えてみるか……)
俺はまだ口には出さなかったが、今後の身の振り方の一つとして、その選択肢を胸に留めた。
◇
それから数日間、俺たちはソフィアに滞在した。
そして出発の前日、俺たちは街の書店へと足を運んだ。
ロウェナは店に入ると、迷わず棚の一角へ向かい、一冊の本を手に取った。
図書館で読もうとして、難しくて読めなかった冒険小説に似た分厚い本だ。
「……これがいい」
「いいのか? まだお前一人じゃ読めないぞ」
俺が言うと、ロウェナは本を両手でしっかりと抱きしめて首を振った。
「いいの。……いつか、これをちゃんと読めるようになりたい」
彼女はまっすぐな瞳で俺を見た。
「ことばの『ルール』をしって、このなかの世界をじぶんで見たいの。……だから、これはもくひょう」
今の自分には届かない。
だからこそ、それを目指したい。
その言葉に、俺はニッと笑って頷いた。
「上等だ。……店主、これをくれ」
◇
翌朝。
俺たちは数日間お世話になったソフィアの街を後にした。
背中の荷物は少し重くなった。
だが、ロウェナの足取りは軽い。
「いこう! りょうとへ!」
彼女のリュックの中には、まだ読めない、けれどいつか必ず読むための「目標」が入っている。
学校へ行くかどうか、まだロウェナは口にしていない。
だが、そのための「知りたい」という種は、確かに彼女の中で芽吹き始めているようだった。
「ああ、行くぞ。……まずは昼飯の心配からだけどな」
「もう、えどったら!」
俺たちは笑い合いながら、東へと続く街道を歩き出した。
春の風が、ページをめくるように優しく吹き抜けていった。