軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

迷宮の書架と、行間の意味

学術都市ソフィアの中心には、この街の象徴とも言える巨大な建物が鎮座している。

『ソフィア大図書館』

大陸中から集められた書物が眠る、知の迷宮だ。

俺たちは遺跡での一件を経て、この図書館を見学していくことにした。

重厚な扉を押し開けると、古紙とインク、そして静寂が混ざり合った独特の匂いが鼻をくすぐる。

天井は遥か高く、壁一面を埋め尽くす本棚が、まるで森のように奥へと続いている。

「すごい……! ほんがいっぱい!」

ロウェナが声を上げそうになり、慌てて口元を手で覆った。

入り口の立て看板を見て、小声で読み上げる。

「『せいしゅく……に、ねがいます』……『いんしょく、きんし』」

「よく読めたな。旅の間、勉強した甲斐があった」

俺が頭を撫でると、ロウェナはえへへと嬉しそうに笑った。

この旅の間、俺とクリスで少しずつ文字を教えてきた成果だ。

看板や注意書き、子供向けの簡単な絵本程度なら、今の彼女は一人で読むことができる。

「よし、少し中を探検してみるか」

俺たちは、圧倒的な書物の森へと足を踏み入れた。

児童書コーナーには、各地の民話や冒険譚が並んでいた。

ロウェナは普段なら絵の多い薄い本を選ぶのだが、今日は違った。

「わたし、これにする」

彼女が手に取ったのは、『少年騎士と風の精霊』というタイトルの、挿絵が少ない物語の本だった。

「おっ、少し難しいのに挑戦するか?」

「うん。クリスみたいに、じの多い本もよめるようになりたいの」

ロウェナはやる気満々で、閲覧机に本を広げた。

俺とクリスは少し離れた席に座り、彼女の奮闘を見守ることにした。

ロウェナは指で文字を追いながら、小さく口を動かしている。

文字自体は読めているようだ。つっかえながらも、音読は進んでいる。

だが、数ページ進んだところで、彼女の眉間に深い皺が寄った。

「……?」

首を傾げ、ページを戻り、また読み直す。

そして、助けを求めるように俺たちの方を振り返った。

「エド、クリス。……ここ、いみがわかんない」

俺たちが近づいて覗き込む。

彼女が指差したのは、主人公が強敵を前にしたシーンの一文だった。

『彼は恐怖を飲み込み、腹をくくって剣を抜いた』

「どうした? 読めてるじゃないか」

「うん、よめるけど……。『きょうふ』って、たべものよくわかんない。それに『はらをくくる』って、おなかにヒモをまくの? そんなことしたら、くるしくてたたかえないよ」

ロウェナは真剣な顔で心配している。

俺は思わず吹き出しそうになったが、クリスが優しくフォローに入った。

「あー、なるほど。ロウェナちゃん、それは『比喩』と言ってね、本当に食べるわけじゃないんだ」

「ひゆ?」

「そう。言葉の綾というか……」

説明しようとするクリスだが、ロウェナは腑に落ちない顔だ。

文字通りの意味しか知らない彼女にとって、慣用句や比喩表現は「嘘が書いてある」ように見えるのだろう。

「それはね、『覚悟を決めた』っていう意味だよ」

不意に、隣の机から声がかかった。

見れば、十歳くらいの少年が、分厚い本から顔を上げてこちらを見ていた。

この街の学校に通う学生だろうか、制服を着ている。

「かくごを、きめる?」

「うん。『腹をくくる』は、逃げないぞって心を決めることの言い換えなんだ。昔の人は、お腹に魂があると思ってたから、そこを帯でギュッと締めて気合を入れたのが始まりなんだって」

少年は、自分の腹帯を締める仕草をして見せた。

「へぇー! そうなんだ!」

「あと『恐怖を飲み込む』は、怖くて叫び出しそうなのを、ゴクンって我慢したってこと。……言葉にはね、文字のままの意味と、裏側の意味があるんだよ」

少年は少し得意げに、でも親切に教えてくれた。

「うらがわのいみ……」

「そう。パズルみたいで面白いだろ? このルールが分かると、もっと物語が面白くなるよ」

「すごい! おにいちゃん、ものしり! どうしてそんなことしってるの?」

ロウェナが目を輝かせて尋ねる。

「え? ああ、学校で先生に習ったんだ。『国語』の授業でね」

「がっこう……」

ロウェナは口の中でその言葉を転がした。

ただの文字の羅列が、意味を持った情景として浮かび上がってくる。

その「秘密のルール」を教えてくれる場所。

彼女の中で、ぼんやりとしていた「学校」という場所の輪郭が、少しだけはっきりとしたようだった。

楽しそうに少年と話すロウェナを見ながら、俺はクリスに小声で話しかけた。

「……やっぱり、餅は餅屋だな」

「師匠?」

「俺が教えてやれたのは、『毒』とか『立入禁止』とか、契約書の金額とか……生きていくためのサバイバル術としての文字だ。看板が読めりゃ死なない、ってな」

俺は苦笑して、ロウェナの背中を見た。

「だが、物語を楽しんだり、誰かの感情を深く理解したりするための『教養』としての言葉は、俺には教えきれん。……あいつの世界を広げるには、学校って選択肢も悪くないかもしれん」

ふと、以前のことを思い出す。

まだ王都を出てすぐの時、ロウェナの将来を案じた時に、漠然と「普通の子供としての幸せ」を考えたことがあった。

あの時はまだ遠い先のことだと思っていたが、こうして実際に知識の壁にぶつかり、それを乗り越えようとする姿を見ると、現実味を帯びてくる。

(領都に着いたら、本気で考えてみるか……)

俺はまだ口には出さなかったが、今後の身の振り方の一つとして、その選択肢を胸に留めた。

それから数日間、俺たちはソフィアに滞在した。

そして出発の前日、俺たちは街の書店へと足を運んだ。

ロウェナは店に入ると、迷わず棚の一角へ向かい、一冊の本を手に取った。

図書館で読もうとして、難しくて読めなかった冒険小説に似た分厚い本だ。

「……これがいい」

「いいのか? まだお前一人じゃ読めないぞ」

俺が言うと、ロウェナは本を両手でしっかりと抱きしめて首を振った。

「いいの。……いつか、これをちゃんと読めるようになりたい」

彼女はまっすぐな瞳で俺を見た。

「ことばの『ルール』をしって、このなかの世界をじぶんで見たいの。……だから、これはもくひょう」

今の自分には届かない。

だからこそ、それを目指したい。

その言葉に、俺はニッと笑って頷いた。

「上等だ。……店主、これをくれ」

翌朝。

俺たちは数日間お世話になったソフィアの街を後にした。

背中の荷物は少し重くなった。

だが、ロウェナの足取りは軽い。

「いこう! りょうとへ!」

彼女のリュックの中には、まだ読めない、けれどいつか必ず読むための「目標」が入っている。

学校へ行くかどうか、まだロウェナは口にしていない。

だが、そのための「知りたい」という種は、確かに彼女の中で芽吹き始めているようだった。

「ああ、行くぞ。……まずは昼飯の心配からだけどな」

「もう、えどったら!」

俺たちは笑い合いながら、東へと続く街道を歩き出した。

春の風が、ページをめくるように優しく吹き抜けていった。