作品タイトル不明
遠き日の魔法と、沈黙する石碑
東へと向かう旅路は順調だった。
マーサと別れた森を抜け、俺たちは再び整備された街道を進んでいた。
この辺りは大陸東部でも特に歴史の古い地域だそうで、街道沿いには時折、何のために作られたのか分からない古い石積みが見受けられた。
「師匠、見てください。……あれです」
前方を歩いていたクリスが、杖で小高い丘を指し示した。
その丘の上には、異様な光景が広がっていた。
巨大な石板が、乱立している。
一つ一つが高さ十メートルはあろうかという巨石が、まるで巨人が積み木を放り投げたかのように、デタラメに、しかし圧倒的な質量を持って地面に突き刺さっていた。
「あれが……『碑文の丘』か」
「はい。この地域の観光名所です」
俺たちは街道を外れ、その丘へと登っていった。
◇
近づくにつれ、そのスケールに圧倒される。
ただの岩ではない。一枚岩の板だ。
どうやって切り出し、どうやってここまで運び、どうやって地面に突き立てたのか。
物理的に考えれば考えるほど、頭が痛くなるような光景だ。
「うわぁ……。おおきい」
ロウェナが石板の表面をペタペタと触る。
表面には、びっしりと細かな幾何学模様のようなものが刻まれていた。
長年の風雨に晒され、角は丸くなっているが、刻まれた溝は未だにくっきりと残っており、陽の光を受けて微かに発光しているようにも見える。
「すごいな……。クリス、これ、読めるか?」
俺が尋ねると、クリスは居場所を直し、石板を凝視した。
しばらく無言で見つめていたが、やがて降参したように小さく肩をすくめた。
「……駄目ですね。流石に古すぎます。僕が知っているどの言葉とも違う……手掛かりすら掴めません」
「お前でもか?」
「はい。これは、僕の手には負えませんね」
クリスは苦笑して首を振った。
博識なこいつが、何一つ読み取れない未知の言葉。
俺たちは改めて、沈黙する巨石を見上げた。
「それが読めたら、君は歴史に名を残せるぞ」
不意に、石板の陰から声がした。
現れたのは、一人の初老の男性だった。
簡素なローブを纏い、手には分厚い手帳と、拓本を持っている。
「おや、熱心な観光客だこと」
「貴方は?」
「私はハンス。ここにある碑文の研究をしている考古学者だ」
ハンスと名乗った老学者は、愛おしそうに石板を撫でた。
「読めなくて当然じゃよ。これは数千年前……魔法という概念が今とはまるで違っていた時代のものだからね」
「ちがうの?」
ロウェナが首を傾げる。
「そうさ。今でこそ、魔法を使える人間はほんの一握り。才能ある者が厳しい修行をして、ようやく使える特別な力だろう?」
ハンスの言葉に俺は頷く。
実際、俺も魔法は使えないし、使い手に出会うことの方が珍しい。
「だが、この時代の人々は違った。誰もが当たり前に魔力を持ち、水を飲むように、火を起こすように、呼吸をするのと同じくらい自然に魔法を使っていたと言われている」
ハンスは石板の表面を指先でなぞった。
「この石板もそうだ。岩を削ったんじゃない。魔法で土を練り上げ、空中で形を整えて、そのまま固めたものだと言われている」
「……土を練って、これをか?」
俺は呆れて石板を見上げた。
十メートルの岩を、粘土細工のように作ったというのか。
「今の我々の技術では、こんな芸当は逆立ちしても無理じゃよ。魔力を持つ者が減り、使い方も忘れ去られてしまった。……完全に失われた技術だ」
ハンスは遠くを見るような目をした。
今よりもずっと凄まじい力が、当たり前に存在していた時代。
この石板は、その時代の証人なのだ。
ロウェナは、自分の手元にある図鑑と、目の前の巨大な石板を交互に見た。
どちらも読めない。
でも、そこには確実に「意味」がある。
「なんてかいてあるの?」
ロウェナがハンスに尋ねる。
「誰にも分からない。……だからこそ、みんな知りたいんだよ」
ハンスは優しく微笑み、丘の向こう側を指差した。
「ごらん。あれが答えだ」
指差された先。丘を下った盆地に、壮麗な石造りの街並みが広がっていた。
高い尖塔、ドーム状の屋根を持つ巨大な建物、そして整然と並ぶ煉瓦造りの家々。
夕暮れの光を浴びて輝くその街は、ここから見ても知的な美しさを湛えていた。
「あそこに見えるのが学術都市『ソフィア』。……元々はね、この難解な碑文を解読するために、大陸中から学者や研究者が集まってできたキャンプが始まりなんじゃよ」
「この石をよむために、まちができたの?」
「ああ。一人の一生では読み解けないから、弟子を育て、子に託し、数百年かけて知恵を繋いできた。分からないことを知りたいという情熱が、あの街を作ったんだ」
ハンスの言葉に、俺は改めてその街を見下ろした。
ただの「知りたい」という欲求が、これほどの大都市を生み出したのか。
剣や力だけが全てではない。
人の持つ執念のような探究心に、俺は奇妙な感動を覚えた。
「世界は広いな。俺たちの知らないことが、まだ山のように転がってる」
俺が呟くと、ロウェナも黙って頷いた。
彼女の瞳には、沈黙する石碑と、その麓に広がる街が焼き付いていた。
分からないことは、怖いことじゃない。
それを解き明かそうとする人たちがいて、街ができるほど素敵なことなんだ。
「おじいちゃん、ありがとう」
「ふふ、どういたしまして。……さあ、日が暮れる。街へ行くといい。あそこには、君たちの知らない物語がもっと沢山眠っているはずだよ」
遺跡の見学を終えた俺たちは、丘を下り、ソフィアの街へと向かった。
ロウェナは時折、振り返って丘の上の巨石を見ていた。
それはもう、ただの不気味な岩ではなく、何かを語りかけたがっている不思議な存在に見えているようだった。
知識の都、ソフィア。
そこにはきっと、彼女の新しい扉を開く鍵があるはずだ。