軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

東風吹く街道と、森の小さなお茶会

硝子の街ヴィドロを後にした俺たちは、東方面へ向かう商隊の馬車に便乗させてもらっていた。

これまで南下を続けていた進路を、ここから大きく東へ変え、山脈を迂回してから北上する。

いよいよ領都へ向かう帰路の始まりだ。

季節はすっかり春めいている。

東から吹く風――東風には、湿り気を含んだ草木の匂いが混じっていた。

だが、その道中でトラブルが起きた。

半日ほど進んだ先にある大きな川。

そこにかかっていたはずの石橋が、無残にも崩落していたのだ。

「……こりゃあ酷い。雪解け水の増水でやられたか」

商隊の主人が、濁流を見下ろして頭を抱える。

「旦那、どうします? 修理を待つか、大きく迂回して上流の橋を目指すか……どちらにせよ数日はロスしますぜ」

「……仕方ない、安全第一だ。上流へ回ろう」

商隊は安全な迂回路を選んだ。

だが、地図を見る限り、それはかなりの大回りになる。

「俺たちはここで降りるよ」

俺は地図上の『旧街道』を指差した。

「この森を抜ける獣道がある。馬車じゃ無理だが、徒歩なら抜けられるはずだ」

「迷いの森ですか? 物好きな……いや、旦那たちなら大丈夫か」

商隊と別れ、俺たちは荷物を背負い直して、鬱蒼と茂る森へと足を踏み入れた。

森の中は静寂に包まれていた。

足元の腐葉土はふかふかとして歩きにくいが、新緑の木漏れ日は心地よい。

しばらく進むと、前方の道端で何かが立ち往生しているのが見えた。

木製の小さな荷車だ。左の車輪が泥濘の溝に深くハマってしまい、動かなくなっている。

その傍らには、困り果てた様子の小柄な老婆が一人、何度も車輪を押そうとしていた。

「んぬぬ……びくともしないねぇ」

俺たちは顔を見合わせ、駆け寄った。

「ばあさん、手伝うぞ」

「おや、旅の人かい? 助かるよぉ」

俺とクリスで荷車の後ろに回り、せーの、で持ち上げる。

ズボッ、と音を立てて車輪が泥から抜け出した。

「ふぅ……。ありがとうございます、力持ちだねぇ」

老婆はマーサと名乗った。

この森に住む薬師で、採取した薬草を街へ卸しに行く途中だったという。

「ありがとうございます。……でも、こんな森の中をお一人で? 熊や狼が出ると聞きましたが、危なくないんですか?」

クリスが心配そうに尋ねる。

確かに、老婆一人で歩くには危険すぎる場所だ。

「ああ、それなら大丈夫さ。あたしゃ薬師だからね」

マーサは荷車の隅にぶら下がっていた、小さな香炉のようなものを指差した。

「特製の『獣よけの香』を焚いていたのさ。獣が嫌がる匂いでね。……ただ」

彼女は香炉の中を覗き込み、苦い顔をした。

「ここで立ち往生して時間がかかったせいで、もう切れかけちまってる。さっきからヒヤヒヤしてたとこさ」

見れば、香炉から立ち上る紫色の煙は、今にも消えそうなほど細くなっていた。

「なら、森を抜けるまで一緒に行きましょう。俺たちが護衛します」

「おやまあ、頼もしいねぇ。お願いできるかい?」

俺たちはマーサの荷車を囲むようにして、再び歩き出した。

道中、マーサは道端の草花を指差しては、色々なことを教えてくれた。

「ほら、あそこに見える赤い実。『蛇イチゴ』だよ。毒消しになるんだ」

「こっちの青い葉っぱは、煎じて飲むと腹痛が治るよ」

長年の知恵に、ロウェナは目を輝かせて聞き入っている。

だが、俺は気が付いていた。

しばらく前から、風下よりねっとりとした視線が付き纏っていることに。

(……来てるな)

俺はクリスに目配せを送る。

彼も気づいているようで、さりげなく槍の持ち位置を修正していた。

マーサの香炉から、ふっ、と最後の煙が消えた。

その瞬間を待っていたかのように、背後の茂みがカサリと揺れた。

バキッ、ボキッ。

小枝を踏み折る音が、徐々に、しかし確実に近づいてくる。

「ひっ……! け、獣の臭いだ……!」

マーサが顔を青くして立ち止まる。

俺たちが振り返ったその先、森の影からぬぅっと黒い巨体が姿を現した。

冬眠から覚めたばかりの『大熊』だ。

腹を空かせているのか、口元から涎を垂らし、凶悪な眼光でこちらを睨んでいる。

「で、出たぁ!」

マーサが悲鳴を上げて荷車の陰に隠れる。

「クリス、やれるか?」

「はい!」

俺がロウェナとマーサを庇う間に、クリスが槍を構えて前に出た。

熊が咆哮と共に突進してくる。

だが、クリスは慌てない。

サイドステップで巨体を躱すと同時に、熊の鼻先――急所を、槍の石突きで強烈に叩いた。

ギャンッ!

熊が情けない声を上げてのけぞる。

殺さず、痛みで戦意を挫く。見事な手際だ。

熊は恐れをなして、一目散に森の奥へと逃げ去っていった。

「すごいねぇ! 騎士様かい?」

「いえ、ただの旅人です」

クリスは涼しい顔で槍を収めた。

森の出口近くにある広場で、休憩を取ることになった。

マーサが助けてくれたお礼にと、採取したばかりのハーブと蜂蜜で、特製の紅茶を淹れてくれた。

「おいしい! おはなの味がする!」

ロウェナがカップを両手で持ち、嬉しそうに笑う。

爽やかな香りと甘みが、旅の疲れを優しく解きほぐしていく。

「お嬢ちゃん、これを持っておいき。森の植物を描いた図鑑だよ」

マーサは荷車から、古びた手書きの冊子を取り出し、ロウェナに手渡した。

「え、いいの? ありがとう!」

ロウェナは早速ページをめくり始めた。

そこには、繊細なタッチで描かれた植物の絵と、その効能が記されていた。

だが。

「……ん?」

ロウェナの手が止まる。

「これ、なんてかいてあるの?」

彼女が指差したのは、説明書きの部分だ。

俺も覗き込んでみたが、眉をひそめた。

「……字が汚な……いや、癖が強いな。それに、これはかなり古い地方の方言か?」

達筆すぎて読めない上に、言い回しが独特だ。俺の学力では解読が難しい。

「どれどれ……貸してみて」

クリスが横から覗き込み、ふむ、と顎に手を当てた。

「……これは『コモン・セージ』ですね。ここには……『根を煎じて飲むべし。古き血の巡りを良くする』と書いてあります。古い文献で使われる表現ですね」

「すごい! クリス、よめるの?」

「ええ、まあ。少し考えれば分かりますよ」

クリスはその後も、ロウェナが指差す難解な文章を、次々と読み解いてみせた。

「クリスはものしりだね。……どこでおぼえたの?」

ロウェナが尊敬の眼差しで尋ねる。

クリスは少し照れくさそうに笑った。

「昔、学校に通っていた時に習ったんですよ。古い言葉や、植物のことも」

「がっこう?」

ロウェナが首を傾げる。

「はい。先生がいて、友達がたくさんいて……。一緒に勉強したり、遊んだりする場所です」

「……ふーん」

ロウェナは手元の図鑑に視線を落とした。

そこには綺麗な絵があるのに、文字が読めないせいで、その意味が分からない。

ふと、彼女の脳裏にある男の顔が浮かんだ。

かつて、ノーレストの街周辺で出会った冒険者パーティ『黒い短剣』。

そのメンバーだった薬師の青年、ピップだ。

彼は荒っぽい仲間たちの中で、いつも穏やかに微笑んでいた。

『大丈夫ですよ。この薬草を煎じれば、すぐに痛みは引きますからね』

そう言って手際よく薬を調合し、傷ついた仲間を癒やしていた。

『知識があれば、剣を振るえなくても仲間を助けられるんです』

優しく語っていた彼の姿は、子供心にとても頼もしく、魔法使いのように見えたものだ。

目の前にいるマーサもそうだ。

ただの草を、人を癒やす薬や、美味しいお茶に変えてしまう。

(……すごい。えどやクリスを、たすけられる)

ロウェナは図鑑を胸に抱きしめた。

この本には、ピップやマーサが持っていたような「すごい知識」が詰まっているのだ。

でも、今の自分には読むことができない。

クリスには読める。

学校で習ったから。

(……わかるようになれば、わたしももっと、えどのやくにたてる?)

ロウェナはクリスを見た。

「がっこうって、いくとクリスみたいに、ほんがよめる?」

「ええ。もちろんですよ。きっと、もっと色んなことが分かるようになります」

「……そっか」

ロウェナは何かを決意したように、ぎゅっと図鑑を握りしめた。

森を抜けると、視界いっぱいに東の空が広がっていた。

心地よい風が吹き抜けていく。

俺たちは新たな知識と、小さな憧れを胸に、再び東へと続く街道を歩き出した。