作品タイトル不明
東風吹く街道と、森の小さなお茶会
硝子の街ヴィドロを後にした俺たちは、東方面へ向かう商隊の馬車に便乗させてもらっていた。
これまで南下を続けていた進路を、ここから大きく東へ変え、山脈を迂回してから北上する。
いよいよ領都へ向かう帰路の始まりだ。
季節はすっかり春めいている。
東から吹く風――東風には、湿り気を含んだ草木の匂いが混じっていた。
だが、その道中でトラブルが起きた。
半日ほど進んだ先にある大きな川。
そこにかかっていたはずの石橋が、無残にも崩落していたのだ。
「……こりゃあ酷い。雪解け水の増水でやられたか」
商隊の主人が、濁流を見下ろして頭を抱える。
「旦那、どうします? 修理を待つか、大きく迂回して上流の橋を目指すか……どちらにせよ数日はロスしますぜ」
「……仕方ない、安全第一だ。上流へ回ろう」
商隊は安全な迂回路を選んだ。
だが、地図を見る限り、それはかなりの大回りになる。
「俺たちはここで降りるよ」
俺は地図上の『旧街道』を指差した。
「この森を抜ける獣道がある。馬車じゃ無理だが、徒歩なら抜けられるはずだ」
「迷いの森ですか? 物好きな……いや、旦那たちなら大丈夫か」
商隊と別れ、俺たちは荷物を背負い直して、鬱蒼と茂る森へと足を踏み入れた。
◇
森の中は静寂に包まれていた。
足元の腐葉土はふかふかとして歩きにくいが、新緑の木漏れ日は心地よい。
しばらく進むと、前方の道端で何かが立ち往生しているのが見えた。
木製の小さな荷車だ。左の車輪が泥濘の溝に深くハマってしまい、動かなくなっている。
その傍らには、困り果てた様子の小柄な老婆が一人、何度も車輪を押そうとしていた。
「んぬぬ……びくともしないねぇ」
俺たちは顔を見合わせ、駆け寄った。
「ばあさん、手伝うぞ」
「おや、旅の人かい? 助かるよぉ」
俺とクリスで荷車の後ろに回り、せーの、で持ち上げる。
ズボッ、と音を立てて車輪が泥から抜け出した。
「ふぅ……。ありがとうございます、力持ちだねぇ」
老婆はマーサと名乗った。
この森に住む薬師で、採取した薬草を街へ卸しに行く途中だったという。
「ありがとうございます。……でも、こんな森の中をお一人で? 熊や狼が出ると聞きましたが、危なくないんですか?」
クリスが心配そうに尋ねる。
確かに、老婆一人で歩くには危険すぎる場所だ。
「ああ、それなら大丈夫さ。あたしゃ薬師だからね」
マーサは荷車の隅にぶら下がっていた、小さな香炉のようなものを指差した。
「特製の『獣よけの香』を焚いていたのさ。獣が嫌がる匂いでね。……ただ」
彼女は香炉の中を覗き込み、苦い顔をした。
「ここで立ち往生して時間がかかったせいで、もう切れかけちまってる。さっきからヒヤヒヤしてたとこさ」
見れば、香炉から立ち上る紫色の煙は、今にも消えそうなほど細くなっていた。
「なら、森を抜けるまで一緒に行きましょう。俺たちが護衛します」
「おやまあ、頼もしいねぇ。お願いできるかい?」
俺たちはマーサの荷車を囲むようにして、再び歩き出した。
道中、マーサは道端の草花を指差しては、色々なことを教えてくれた。
「ほら、あそこに見える赤い実。『蛇イチゴ』だよ。毒消しになるんだ」
「こっちの青い葉っぱは、煎じて飲むと腹痛が治るよ」
長年の知恵に、ロウェナは目を輝かせて聞き入っている。
だが、俺は気が付いていた。
しばらく前から、風下よりねっとりとした視線が付き纏っていることに。
(……来てるな)
俺はクリスに目配せを送る。
彼も気づいているようで、さりげなく槍の持ち位置を修正していた。
マーサの香炉から、ふっ、と最後の煙が消えた。
その瞬間を待っていたかのように、背後の茂みがカサリと揺れた。
バキッ、ボキッ。
小枝を踏み折る音が、徐々に、しかし確実に近づいてくる。
「ひっ……! け、獣の臭いだ……!」
マーサが顔を青くして立ち止まる。
俺たちが振り返ったその先、森の影からぬぅっと黒い巨体が姿を現した。
冬眠から覚めたばかりの『大熊』だ。
腹を空かせているのか、口元から涎を垂らし、凶悪な眼光でこちらを睨んでいる。
「で、出たぁ!」
マーサが悲鳴を上げて荷車の陰に隠れる。
「クリス、やれるか?」
「はい!」
俺がロウェナとマーサを庇う間に、クリスが槍を構えて前に出た。
熊が咆哮と共に突進してくる。
だが、クリスは慌てない。
サイドステップで巨体を躱すと同時に、熊の鼻先――急所を、槍の石突きで強烈に叩いた。
ギャンッ!
熊が情けない声を上げてのけぞる。
殺さず、痛みで戦意を挫く。見事な手際だ。
熊は恐れをなして、一目散に森の奥へと逃げ去っていった。
「すごいねぇ! 騎士様かい?」
「いえ、ただの旅人です」
クリスは涼しい顔で槍を収めた。
◇
森の出口近くにある広場で、休憩を取ることになった。
マーサが助けてくれたお礼にと、採取したばかりのハーブと蜂蜜で、特製の紅茶を淹れてくれた。
「おいしい! おはなの味がする!」
ロウェナがカップを両手で持ち、嬉しそうに笑う。
爽やかな香りと甘みが、旅の疲れを優しく解きほぐしていく。
「お嬢ちゃん、これを持っておいき。森の植物を描いた図鑑だよ」
マーサは荷車から、古びた手書きの冊子を取り出し、ロウェナに手渡した。
「え、いいの? ありがとう!」
ロウェナは早速ページをめくり始めた。
そこには、繊細なタッチで描かれた植物の絵と、その効能が記されていた。
だが。
「……ん?」
ロウェナの手が止まる。
「これ、なんてかいてあるの?」
彼女が指差したのは、説明書きの部分だ。
俺も覗き込んでみたが、眉をひそめた。
「……字が汚な……いや、癖が強いな。それに、これはかなり古い地方の方言か?」
達筆すぎて読めない上に、言い回しが独特だ。俺の学力では解読が難しい。
「どれどれ……貸してみて」
クリスが横から覗き込み、ふむ、と顎に手を当てた。
「……これは『コモン・セージ』ですね。ここには……『根を煎じて飲むべし。古き血の巡りを良くする』と書いてあります。古い文献で使われる表現ですね」
「すごい! クリス、よめるの?」
「ええ、まあ。少し考えれば分かりますよ」
クリスはその後も、ロウェナが指差す難解な文章を、次々と読み解いてみせた。
「クリスはものしりだね。……どこでおぼえたの?」
ロウェナが尊敬の眼差しで尋ねる。
クリスは少し照れくさそうに笑った。
「昔、学校に通っていた時に習ったんですよ。古い言葉や、植物のことも」
「がっこう?」
ロウェナが首を傾げる。
「はい。先生がいて、友達がたくさんいて……。一緒に勉強したり、遊んだりする場所です」
「……ふーん」
ロウェナは手元の図鑑に視線を落とした。
そこには綺麗な絵があるのに、文字が読めないせいで、その意味が分からない。
ふと、彼女の脳裏にある男の顔が浮かんだ。
かつて、ノーレストの街周辺で出会った冒険者パーティ『黒い短剣』。
そのメンバーだった薬師の青年、ピップだ。
彼は荒っぽい仲間たちの中で、いつも穏やかに微笑んでいた。
『大丈夫ですよ。この薬草を煎じれば、すぐに痛みは引きますからね』
そう言って手際よく薬を調合し、傷ついた仲間を癒やしていた。
『知識があれば、剣を振るえなくても仲間を助けられるんです』
優しく語っていた彼の姿は、子供心にとても頼もしく、魔法使いのように見えたものだ。
目の前にいるマーサもそうだ。
ただの草を、人を癒やす薬や、美味しいお茶に変えてしまう。
(……すごい。えどやクリスを、たすけられる)
ロウェナは図鑑を胸に抱きしめた。
この本には、ピップやマーサが持っていたような「すごい知識」が詰まっているのだ。
でも、今の自分には読むことができない。
クリスには読める。
学校で習ったから。
(……わかるようになれば、わたしももっと、えどのやくにたてる?)
ロウェナはクリスを見た。
「がっこうって、いくとクリスみたいに、ほんがよめる?」
「ええ。もちろんですよ。きっと、もっと色んなことが分かるようになります」
「……そっか」
ロウェナは何かを決意したように、ぎゅっと図鑑を握りしめた。
森を抜けると、視界いっぱいに東の空が広がっていた。
心地よい風が吹き抜けていく。
俺たちは新たな知識と、小さな憧れを胸に、再び東へと続く街道を歩き出した。