作品タイトル不明
陽だまりの街道と、古き砦の跡
山脈を一つ越えると、世界の色が変わった。
あれほど視界を埋め尽くしていた白銀の雪景色は、峠を下るにつれて徐々に薄れ、やがて完全に姿を消した。
代わりに現れたのは、乾いた土の茶色と、岩肌の灰色。
そして、所々に顔を出し始めた草木の緑だ。
「……暑い」
ロウェナが、モコモコの羊毛コートの前をガバッと開けた。
空は雲一つない快晴。
頬を撫でる風にはまだ冷たさが残っているが、頭上から降り注ぐ日差しはポカポカと暖かく、歩いていると汗ばむほどだ。
「空気が変わりましたね。もう冬の匂いがしません」
クリスも厚手のマフラーを外し、背嚢にしまいながら空を見上げた。
「山一つ越えればこんなもんだ。北からの寒波を山脈が遮ってくれているおかげだな」
俺もジャケットの襟を寛げ、深く息を吸い込んだ。
乾いた土と、植物の匂い。
ここから先には、一足早い春の足音が聞こえている。
◇
街道をさらに南下し、小高い丘を登った先に、その遺跡はあった。
『ベルカ砦』
かつて、この地が国境争いの最前線だった頃に築かれたという石造りの防衛拠点だ。
今はもう戦略的な価値を失い、崩れかけた石壁が蔦に覆われた、ただの観光名所となっている。
「おしろだー!」
ロウェナが歓声を上げ、崩れた城門跡をくぐって走り出した。
石畳の隙間から雑草が生い茂る中庭は、子供にとっては格好の遊び場だ。
「転ぶなよ」
俺はロウェナを目で追いながら、ゆっくりと敷地内に入った。
クリスは興味深そうに、高くそびえる石壁や、狭く作られた入り口を観察している。
「……立派なものですね。これほど堅牢な石壁と、計算された射眼の配置があれば、数倍の敵が押し寄せても守りきれそうです」
彼は壁をペタペタと触り、感心したように言った。
「そう見えるか?」
俺が尋ねると、クリスは自信ありげに頷いた。
「はい。地形も高所ですし、攻める側は苦労するはずです」
「残念だが、この砦は三日で落ちた」
「えっ? 三日……ですか?」
クリスが驚いて振り返る。
俺は顎で、中庭の中央にある井戸を指した。
「水源があそこしかない。しかも、本丸からは少し離れている。敵はまず水源を断ち、次に風上から火矢を放った。……あそこの壁を見てみろ、黒ずんでいるだろう?」
俺が指差した石壁の上部には、古い煤の跡がこびりついていた。
「どんなに壁が厚くても、水がなくなり、煙に巻かれれば兵は戦えない。見た目の頑丈さと、実際の『守りやすさ』は別物だってことだ」
クリスはハッとして、井戸と壁を交互に見比べた。
「……なるほど。守る側にとって何が急所になるか、ということですね」
「そうだ。パーティのリーダーも同じだぞ。仲間の装備や強さだけを見て過信するな。飯や水の補給線、体調、精神状態……そういう目に見えない『穴』を常に塞いでおくのが、リーダーの仕事だ」
「はい! 肝に銘じます」
クリスは真剣な表情で手帳を取り出し、メモを取り始めた。
俺はあくまで冒険者としての心得を説いただけだが、彼の熱心さは相変わらずだ。
◇
「さて、理屈だけじゃつまらん。少し身体を動かすか」
俺は地面に落ちていた手頃な木の枝を拾い上げた。
「え?」
「ここは足場が悪く、障害物が多い。長い槍には不利な地形だ。……俺に一発でも当ててみろ」
俺がニヤリと笑うと、クリスも苦笑しながら自分の槍と似たサイズの棒を拾い上げた。
「望むところです……!」
模擬戦の開始だ。
クリスが鋭い突きを放つ。
だが、俺は崩れかけた石壁の陰に滑り込み、それを躱した。
「くっ!」
クリスが追撃しようとするが、狭い通路と瓦礫が邪魔をして、長槍を思うように振れない。
俺は壁を蹴り、死角から回り込んで枝を振るう。
「甘いぞ。戦場は平らな闘技場だけじゃない」
「まだです!」
クリスは槍を短く持ち替え、石突きを使って俺の攻撃を弾いた。
そして、あえて狭い通路へと俺を誘い込むように後退する。
(……ほう?)
俺が踏み込んだ瞬間、クリスは瓦礫の山を背にして踏ん張った。
俺の左右の移動を封じ、正面からの勝負に持ち込んだのだ。
「そこだッ!」
逃げ場のない正面からの鋭い突き。
俺は感心しながら、腰の鉄剣を鞘ごと抜く。
パキンッ。
乾いた音と共に、槍に見立てた棒の切っ先を切り落とした。
「……悪くない判断だ。自分の不利を理解して、相手の動きを制限したな」
「はぁ、はぁ……ありがとうございます!」
クリスが額の汗を拭う。
少しの間見ないうちに、こいつも随分と成長したようだ。
◇
日が傾き、砦跡が茜色に染まり始めた頃。
かくれんぼに飽きたロウェナが、崩れた城壁の隙間を指差して声を上げた。
「あ! おはな!」
彼女が駆け寄った先、瓦礫の隙間から、一輪の白い花が顔を出していた。
まだ寒さの残る風の中で、健気に咲く早春の花だ。
「かわいい……」
ロウェナがそっと指先で花びらに触れる。
かつて多くの兵士が血を流し、燃え落ちた砦。
そんな場所も、今は子供が笑い、花が咲く穏やかな場所になっている。
「……平和なもんだな」
俺は城壁の上に座り、その光景を眺めた。
「ええ。……こういう静かな場所を守るためにも、力が必要なんですね」
隣に座ったクリスが、眩しそうにロウェナを見つめて呟く。
その横顔には、ただの冒険者とは違う、どこか凛とした意思が宿っているように見えた。
俺たちはその夜、砦を見下ろす丘の上で野営をした。
夕食は、クロイツで買った干し肉を炙り、温かいスープと共にパンを齧るだけの簡素なものだ。
だが、澄んだ空気と、眼下に広がる遺跡の静寂が、何よりのスパイスだった。
「明日はもっと南へ下るぞ。春を迎えに行こう」
「はい!」
「うん!」
南から吹く風が、焚き火の煙を揺らす。
旅は順調だ。
次はどんな景色が待っているのか。俺たちは期待を胸に、満天の星空を見上げた。