作品タイトル不明
祭りの残り香と、秘密の地図
遠くから響く何万もの歓声が、まるで別の世界の出来事のように、壁の向こうでくぐもって聞こえている。
「……さて。勇者様のおかげで、ここまでは順調ね」
ミネルヴァが足を止め、振り返った。
彼女はいつものクールな表情に戻り、眼鏡の位置を指先で直しながら俺たちを見る。
「でも、あなたたちにはまだ宿に置きっぱなしの荷物があるでしょう? 取りに戻らないと」
「ああ、そうだったな。だが、俺が今あの宿に戻ったら、また騒ぎになるんじゃないか?」
俺が懸念を口にすると、ミネルヴァは「任せて」と自信ありげに頷いた。
「私が同行して、裏口からこっそり案内するわ。荷物を回収したら、そのままチェックアウトの手続きも私が済ませておく。……貴方は『急な旅立ちで申し訳ない』と伝言を残して消えたことにすればいいわ」
「悪いな。最後まで世話をかける。……いいのか? 宿の解約手続きなんて、ギルド職員の仕事じゃないだろう」
俺が礼を言いつつ尋ねると、彼女は肩をすくめて苦笑した。
「……勘違いしないでね。これはギルドの業務じゃないわ。ただ、貴方がうっかり戻って騒ぎが大きくなれば、その苦情処理に追われるのは私なの。自分の平穏のための、ささやかな先行投資よ」
「なるほどな。そいつは合理的だ」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
そこで、俺はクリスに向き直った。
「クリス、お前は別行動だ。先に定宿の『大猪のあくび亭』に行って、部屋を確保しておいてくれ。俺たちの分も頼む」
俺は懐から金貨を数枚取り出し、クリスに握らせた。
「分かりました。部屋が取れたらどうしますか?」
「俺たちは荷物を回収した後、少し街の空気を吸ってから向かう。……そうだな、冒険者ギルドで合流しよう」
「了解です! では、お先に!」
クリスは荷物を背負い直し、裏路地を駆けていった。
◇
俺とロウェナはミネルヴァに先導され、人目を避けて高級宿へと戻った。
裏口から入り、誰にも会わずに部屋の荷物を回収する。
俺は闘技場の医務室で既に旅装に着替えていたため、着替えの手間はない。
ボロボロになった試合用の服や装備は、ミネルヴァに処分を任せた。
「……助かった。これで身軽になれる」
背嚢を背負い、俺はミネルヴァに頭を下げた。
「宿の手続きは済ませておくから、貴方たちは先に行きなさい。……また後で、ギルドで会いましょう」
「ああ。縁があったらな」
俺はひらりと手を振り、ロウェナの手を引いて宿の裏口を出た。
背後でヒールの音が遠ざかっていくのを聞きながら、俺は隣を歩くロウェナに声をかけた 。
「いいか、ロウェナ。ここからは『ストラーノ』と『リベルタ』だ。さっきまでの仮面の剣士のことは、綺麗さっぱり忘れるんだぞ」
「うん! わかった!」
ロウェナは元気よく頷くと、俺の手をぎゅっと握り返してきた。
「えど……ううん、ストラーノとふたりで歩くの、ひさしぶり!」
「そういえばそうだな。ここ数日、バタバタしてたからな」
「りべるた、お祭りみたい! なにか食べたい!」
「お前、試合中もなんか食ってただろ? クリスがポップコーンを買ってたのを見たぞ」
「あれは、おやつ! こんどは、ストラーノといっしょに食べるの!」
彼女の理屈に、俺は思わず吹き出した。
「はいはい。じゃあ、何か美味いもんでも探しながら行くか」
◇
路地を抜け、大通りへと出る。
そこには、建国祭最終日の夜に向けた、最高潮の熱気が満ちていた。
店仕舞いどころか、これからが本番とばかりに魔法のランタンが次々と灯され、通りは昼間以上に煌びやかに輝き始めている。
石畳の上には、昼間のパレードで撒かれた色とりどりの紙吹雪が散らばり、行き交う人々の足元を彩っていた。
通りは、興奮冷めやらぬ人々で溢れかえっている。
「見たかよ、最後の一撃! 凄まじかったなぁ!」
「ああ! 勇者様の聖剣が光ったかと思ったら、ドカーンって!」
「仮面の剣士も凄かったぞ! あの連撃、人間業じゃなかった!」
どこもかしこも、今日の試合の話題で持ちきりだ。
酒場の軒先では、ジョッキを片手にした男たちが身振り手振りで試合の再現をしているし、広場のベンチでは、子供たちが木の枝を剣に見立ててチャンバラごっこに興じている。
「くらえ! 勇者様のいちげきー!」
「負けないぞ! 仮面の剣士のカウンターだ!」
俺はその横を通り過ぎながら、フードを目深に被り直した。
ついさっきまで自分が演じていた「道化」が、ここではもう「英雄」と並ぶ物語の登場人物になっている。
(……変な気分だ。当の本人がここにいるってのに)
「ストラーノ、あれ!」
リベルタが指差したのは、甘い香りを漂わせる屋台だった。
砂糖とシナモンをたっぷりまぶした揚げ菓子が、山のように積まれている。
「別腹ってやつか。……すみません、二つ」
揚げたての菓子を受け取ると、ロウェナは目を輝かせてかぶりついた。
「あつっ! ……ん~、あまい!」
砂糖が口の周りについても気にせず、彼女は幸せそうに頬を膨らませる。
俺も一口齧る。サクッとした食感と、素朴な甘さが口の中に広がり、戦いで張り詰めていた神経を解きほぐしていくようだ。
通りを歩きながら、俺たちは祭りの夜の景色を眺めた。
魔法の光で極彩色に彩られた大道芸人のパフォーマンス。
異国の楽器を奏でる旅の楽団の周りには、手拍子をする人だかりができている。
祭りの終わりを惜しむどころか、この夜を永遠に続けようとするような、凄まじいエネルギーが渦巻いていた。
「……きれいだね」
ロウェナが、夜空に浮かび上がる王城のシルエットを見上げて呟いた。
城壁はライトアップされ、幻想的な光を放っている。
「ああ。いい眺めだ」
俺は菓子の最後の一切れを飲み込んだ。
ロウェナとの束の間の「デート」は悪くないが、そろそろ現実に戻らなきゃならない。
俺たちは祭りの熱気を背に、待ち合わせ場所である冒険者ギルドへと向かった。
◇
ギルドのロビーは、今日の試合の興奮を語り合い、祝杯を上げようとする冒険者たちでごった返していた。
その片隅で、クリス――いや、バナーレが、荷物を抱えてしょんぼりと立っていた。
その表情は、祭りなどどこ吹く風、まるで世界の終わりを見たかのように暗い。
「よう、バナーレ。待たせたな」
俺が声をかけると、クリスはハッとして顔を上げ、泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
「あ、ストラーノさん……!」
「どうした? そんなに青い顔をして」
クリスは周囲を気にしながら声を潜め、絶望的な報告を口にした。
「……宿が、ないんです」
「は?」
俺は眉をひそめた。
「『大猪のあくび亭』に行きましたが、満室でした。それどころか、近隣の宿を片っ端から当たりましたが、どこもかしこも『満室』の札が掛かっていて……」
「マジか……」
俺は念のため、近くを通りかかったギルドの受付職員を呼び止めた。
「おい、ちょっといいか。今から泊まれる宿を知らないか? どこでもいいんだが」
職員は困ったように首を振った。
「ああ、無理ですね。今日は建国祭の最終日ですから。観光客だけじゃなくて、地元の連中まで『今日は朝まで飲むぞ!』って宿を取り合ってる状況でして……。正直、馬小屋すら空いてないと思いますよ」
職員は「ご愁傷様です」と言い残して去っていった。
クリスががっくりと項垂れる。
「……やっぱり、ダメですか」
「参ったな……」
俺は頭を掻いた。
野宿をするにしても、王都内は夜間の規制が厳しい。
公園や広場で寝ていれば、警備兵に叩き起こされるのがオチだ。
かといって、今から城壁の外へ出るには門が閉まる時間が迫りすぎている。
手持ちの金はある。だが、泊まる場所がない。
路頭に迷うとはこのことか。
「……橋の下で寝るわけにもいかんしな」
俺が呟いた時、ふと、ある記憶が脳裏をよぎった。
――『その地図、失くさずに持っておきなさい。……きっと役に立つわ』
大会の前、ミネルヴァがくれたあの地図。
風呂屋の場所を教えてくれた時、彼女は地図の端に、もう一つ別の印をつけていたはずだ。
「……まさか」
俺は懐を探り、折り畳まれた羊皮紙の地図を取り出した。
街灯の明かりの下で広げる。
あった。
風呂屋のある区画とは別の場所。
繁華街から少し外れた、静かな住宅街の路地裏。
そこに、小さな「★」マークが記されている。
「……あいつの言っていた『役に立つ』ってのは、こういうことか?」
俺は半信半疑で印を見つめた。
ミネルヴァは、俺たちが宿に困ることを予見していたのか?
それとも、単に美味い店か何かの紹介か?
住宅街のど真ん中に、都合よく空いている宿があるとも思えない。
「師匠、それは?」
「ミネルヴァがくれた地図だ。ここに妙な印がある」
「そこに行けば、泊まれるんですか?」
「さあな。……だが、他に当てもない」
どちらにせよ、今の俺たちには他にすがる藁がない。
「行くぞ。……もしかしたら、雨風を凌げる場所があるかもしれない」
俺は地図を指で弾き、二人に合図した。
喧騒の残る大通りを離れ、俺たちは地図の印を目指して歩き出した。
繁華街の熱気が背中で遠ざかり、次第に静かな住宅街へと景色が変わっていく。
石畳を叩く三人の足音が、夜の路地に響いた。
ミネルヴァが記したその場所には、一体何が待っているのか。
期待よりも不安の方が大きいが、俺たちは一縷の望みをかけて、夕闇の王都を奥へと進んでいった。