作品タイトル不明
祭りのあと、英雄の素顔
意識が浮上するのと同時に、全身を鈍い痛みが駆け巡った。
瞼の裏が熱い。
鼻孔をくすぐるのは、鉄錆と脂汗の臭いではなく、清潔なリネンと、どこか懐かしい薬草の香りだった。
「……っ」
小さく呻いて目を開ける。
知らない天井だ。
質素だが清潔な石造りの部屋。
窓からは午後の日差しが斜めに差し込んでいる。
「あ、えど!」
ベッドの脇から、安堵に震える小さな声がした。
視線を向けると、ロウェナが俺の右手を両手で包み込むように握りしめ、涙目で覗き込んでいた。
「……ロウェナか」
「えど、だいじょうぶ?」
「ああ……平気だ。生きてるよ」
俺は身体を起こそうとして、脇腹と肩に走る痛みに顔をしかめた。
すぐに横から手が伸びてきて、背中を支えられる。
「無理はいけません、師匠。まだ処置が終わったばかりです」
クリスだった。
その横では、ミネルヴァが手際よく包帯や薬瓶を片付けている。
どうやら、俺が気絶している間に、彼らが応急処置をしてくれたらしい。
「……試合は?」
「師匠の負けです。最後の一撃の衝撃で吹き飛ばされて、そのまま気を失いました」
クリスが悔しそうに、けれど誇らしげに告げる。
「ですが、傷は多くありません。……あれだけの激闘で、五体満足で戻ってこれたこと自体が奇跡です」
俺は自分の身体を見下ろした。
あちこちに打撲や擦り傷はあるが、致命傷はない。
そして、ふと枕元に視線を移す。
そこには、サイドテーブルの上に丁寧に置かれた、俺の愛剣の残骸があった。
半ばからへし折れ、柄の革紐は焼き切れ、刀身はボロボロに刃こぼれしている。
領都の鍛冶師が打ってくれた、長年の相棒。
俺の無茶な剣技に耐え、勇者の聖剣と渡り合い、最後には惜しくも届かず砕け散った鉄塊
(……悪かったな。最後まで付き合ってくれて、ありがとうよ)
俺は折れた柄にそっと触れ、心の中で静かに礼を言った。
喪失感はある。だが、それ以上に「やりきった」という奇妙な清々しさが胸を満たしていた。
「……さて」
俺は痛む体を無理やり起こし、ベッドの縁に腰掛けた。
「寝ている場合じゃないな。……ここは?」
「闘技場の地下医務室よ。運営が用意した貴賓室へ運ぼうとしたら、貴方がうなされながら『高いところは嫌だ』って拒否したの」
ミネルヴァが呆れたように言う。
無意識でも貧乏性が染み付いているらしい。
「賢明な判断だったな。……クリス、悪いが頼みがある」
「はい、何でしょう」
「前の宿……『大猪のあくび亭』にもう一度部屋を取ってきてくれ。あんな豪華な場所は落ち着かない。ほとぼりが冷めたらそっちへ移る」
俺の指示に、クリスは即座に頷いた。
「分かりました! すぐに手配してきます!」
クリスが扉の方へ駆け出し、ノブに手をかけた、その時だった。
ガチャリ。
外から扉が開かれた。
「おや、もう目が覚めたかい?」
入ってきた人物を見て、クリスが凍りついたように立ち止まる。
ラフな麻のシャツに、動きやすいズボン。
どこにでもいる青年の格好だが、その整った顔立ちと、隠しきれない華やかなオーラは消しようがない。
勇者レオナルドだった。
護衛も連れず、たった一人でふらりと現れたのだ。
「ゆ、勇者様!? こ、困ります! 今は……!」
クリスが慌てて俺の前に立ちはだかり、視線を遮ろうとする。
俺の顔には、もう仮面はない。
今、覗かれれば、正体不明の「仮面の剣士」の素顔が白日の下に晒されることになる。
だが。
「……いいさ、クリス。通してやれ」
俺は静かに告げた。
「えっ? で、でも師匠……」
「隠す必要はない。試合の直後、顔は見られてる。……それに、あそこまでやり合った仲だ。今更顔を見られたくらいで、言いふらすような軽い男じゃないだろ」
俺の言葉に、レオナルドが嬉しそうに目を細めるのが見えた。
クリスは迷いながらも、ゆっくりと道を空ける。
俺は顔を隠すこともなく、真っ直ぐに勇者を見上げた。
視線が交差する。
レオナルドは、俺の平凡な顔をまじまじと見つめ、一瞬だけ驚いたように目を丸くした。
そして、すぐにクシャリと人懐っこい笑顔を浮かべた。
「へえ……。さっき一瞬見えた時も思ったけど、想像よりもずっと、優しそうな顔をしているね」
「悪かったな、期待外れの地味な顔で」
「いいや。強さは顔に出ないってことさ。……調子はどうだい?」
レオナルドは遠慮なく部屋に入ってくると、近くの椅子を引き寄せて腰を下ろした。
ミネルヴァとロウェナが、少し緊張した面持ちでそれを見守っている。
「おかげさまでな。全身バラバラになりそうだが、生きてるだけマシだ」
「ははっ、ごめんごめん。つい熱くなっちゃってさ」
レオナルドは悪びれもせず笑うと、真剣な瞳で俺を見た。
「最初の攻防……僕の動きは見えなかったはずだ。砂煙と、背後からの死角。完璧な奇襲だったはずなんだけどね。よく反応できたな」
試合の感想戦だ。
俺は肩をすくめた。
「あんたの殺気がダダ漏れでな。どっちから来るか、肌で分かったよ」
「……殺気、か」
レオナルドは苦笑して頭をかいた。
「参ったな。師匠にもよく言われるんだ。『お前は戦いを楽しもうとしすぎて、殺意が先行する』ってね。……次はもっと上手く隠すよ」
「次があると思うなよ。俺はもう御免だ」
俺が憎まれ口を叩くと、レオナルドは声を上げて笑った。
その空気感は、国を背負う英雄と一介の冒険者ではない。
ただの、剣を交えた男同士のそれだった。
ひとしきり笑った後、レオナルドはふと真面目な顔で天井を仰いだ。
「ところで、これからどうするんだい? ここを出るのは苦労するよ」
「どういうことだ?」
「外を見てきたけど、闘技場の正面ゲートも裏口も、黒山の人だかりさ。みんな、優勝した『仮面の剣士』を一目見ようと待ち構えている」
この部屋からは外の様子は見えないが、勇者の言葉なら間違いないだろう。
「……マジか」
俺は頭を抱えた。
「勘弁してくれ……俺はただゆっくり旅をしたいだけなんだ。こっそり抜け出せないか?」
「無理だろうね。裏口も騎士団が固めてる。君はもう、この国のスターだ」
完全に包囲されている。
これでは宿を変えるどころか、一歩も外に出られない。
途方に暮れる俺を見て、レオナルドが悪戯を思いついた子供のような顔をした。
「……なら、僕が囮になろうか」
「は?」
「その割れた仮面、貰えるかい?」
レオナルドは、サイドテーブルに置かれたままの、真っ二つに割れた道化の仮面を指差した。
「……割れているが、いいのか?」
「構わないさ」
俺が仮面を渡すと、レオナルドはそれを器用に自分の顔に当てた。
割れ目から素顔が覗くが、遠目に見れば「激闘の末に仮面が割れた剣士」にしか見えない。
「これを着けて、僕が正面から派手に出ればいい。みんな僕を『優勝した仮面の剣士』だと思うだろう? 注目を一身に集めてあげるよ」
俺は呆気にとられた。
「……いいのか? 今日の主役は俺だぞ。その役、あんたが持っていくことになるが」
優勝者としての栄誉も、歓声も、全て彼が浴びることになる。
だが、レオナルドはニカっと笑った。
「ふふ、君との試合が僕にとって一番の報酬だったからね。主役の座くらい、喜んで演じさせてもらうよ」
彼は立ち上がり、マントを翻した。
「君たちはその隙に、裏の搬入口から出るといい。あそこなら今は手薄なはずだ」
「……恩に着る」
「いいさいいさ。じゃあ、またどこかで」
レオナルドは割れた仮面を顔に当て、颯爽と部屋を出て行った。
パタン、と扉が閉まる。
その直後。
廊下の向こうから、女性の金切り声と、野太い怒声が響き渡った。
「レオ様ッ!! どこへ行っていたのですか!?」
「試合後に一人でふらふらしないでください! 体のケアが必要です!」
「あと会場の修繕費の件で運営が泣きついてきてるぞ! また石床を剥がしやがって!」
それに対し、「あはは、ごめんごめん、ちょっと迷子でさ」という情けない声が返ってくる。
俺たちは部屋の中で顔を見合わせ、同時に吹き出した。
「……あいつも、大変だな」
「ふふっ、英雄も楽じゃないってことね」
ミネルヴァが笑い、クリスも肩の力を抜いて微笑んでいる。
「さあ、今のうちよ。英雄様が惹きつけてくれている間に、裏口から出ていくわよ」
ミネルヴァが手招きする。
俺たちは荷物をまとめ、慌ただしく部屋を後にした。
◇
闘技場の裏手、資材搬入口。
表の騒ぎが嘘のように、そこは静まり返っていた。
遠くから、ワァァァァッ! という大歓声が聞こえてくる。
きっと今頃、仮面をつけたレオナルドが観衆に手を振っているのだろう。
路地裏に出たところで、俺は足を止めた。
「クリス」
「はい、師匠」
「お前は先に『大猪のあくび亭』に行って、部屋を確保しておいてくれ。俺たちの分も頼む」
俺は懐から金貨を数枚取り出し、クリスに握らせた。
「師匠は?」
「俺は少し……この街の空気を吸ってから帰る。祭りの余韻ってやつだ」
俺は夕暮れの空を見上げた。
激闘を終えた高揚感が、まだ体の奥で燻っている。
すぐに狭い宿に戻って眠るには、少し気が昂りすぎていた。
「そんなに長い時間は出歩かない。宿が取れたら、冒険者ギルドに来てくれ。そこで合流しよう」
「分かりました。では、先に」
クリスは頷き、荷物を背負い直して走り去っていった。
「わたしもいく!」
ロウェナが俺の手を握り、見上げてくる。
「……疲れてないか?」
「ううん! えどと、おさんぽする!」
その元気な笑顔に、俺は頬を緩めた。
「よし、来い。何か美味いものでも食いながら歩こう」
「やったー!」
俺たちはミネルヴァと共に祭りの後の熱気が残る王都の街へと足を踏み出した。