軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第41話 責任者欄を空欄にしてはいけません

――チリン。

銀の音が落ちた。

次の瞬間、監査室の中央に若い男が現れた。

片手には細い指し棒、もう片方の手には受講者名簿を持ち、胸元では名札が揺れている。

男は現れた瞬間、まっすぐ前を見たまま、説明の続きを口にした。

「……ですから、責任者欄を空欄にしてはいけません。空欄は後の混乱を招き――」

そこで言葉が止まった。

目の前にあるのは、受講者たちの机ではなかった。

王宮監査室の証拠品が集められた机だった。

男は指し棒を握ったまま固まる。

「……ここは!? 教室では……ありませんね」

「ええ。ですが、説明の続きにはちょうどよい場所ですわ」

レイベルナが言うと、財務卿も感心したように頷いた。

「責任者欄を空欄にしてはいけないとは、実によい話ですな」

男の顔から血の気が引いた。

「え……私の説明に、何か問題が?」

「説明そのものではありません。問題は、あなたが受講者へ紹介したものです」

リゼットの声が冷たく落ちる。

若い男は慌てて頭を下げた。

「……セヴィル・ロークと申します。王都代書人協会で、業者向けの文書作法講座を担当しております」

責任者欄を空欄にしてはいけない。

今この王宮で一番聞きたいくらいの正論だった。

けれど、その正論を教える講座から、結果として責任をぼかす添え状の文例が広がっていた。

「では、話が早いですわ」

レイベルナは三枚の添え状付き封筒を示す。

「この封筒に付いていた添え状の文面を、あなたは講座で扱いましたね」

セヴィルはそれを読んでから、表情を固くした。

「た、確かにこれは……私が紹介しました。ただ、私は王宮向けの添え状を書くための文例を、講座で紹介しただけです」

ラウルが干し肉を握ったまま首を傾げた。

「じゃあ、封筒と添え状のセットは、講座で売ってたわけじゃないんすか?」

横で小さくなっていたガスパルが、慌てて手を上げた。

「先ほども少しお話ししたように、講座で紹介された例文をうちの商会で封筒に添える「商品」にして売り出したのですぞ」

レイベルナは机の上へ視線を戻した。

「……セヴィルさんは添え状の文例を講座で紹介し、それを受講していたガスパルさんが封筒に添える商品として広げた。そこまでは分かりました」

いつの間にか、顔の右半分に塗られていた白い膏薬は布で綺麗に拭われていた。

だが、右頬だけが妙に艶やかだった。

左頬と比べると、そこだけ少し若返っているようにも見える。

財務卿が猫を撫でながら、ガスパルの顔をまじまじと見た。

「ガスパル殿。やはり、右側だけ少し若く見えますな」

「今そこを確認しないでいただきたい」

「左右の差は、文書より先に目立ちますぞ」

「財務卿、顔の査定を続けないでくださいませ」

トマスが眉を寄せる。

「セヴィルさんは、商品を作った本人ではなく、元になった文面を講座で紹介した人ということですね」

「ええ。今確認したいのは、そこです」

財務卿が猫を撫でながら頷いた。

「文面を紹介した者、それを商品にした者、店に置いた者。それぞれ別ですな。責任が細かく分かれております」

「細かく分かれているからこそ、逃げやすいのです」

リゼットの声が冷たく落ちた。

セヴィルは唇を引き結ぶ。

「ほ、本当に、ただの便利な文例だと思っていました。外部業者は王宮向けの書き方に悩みます。決まった言い回しがあれば、余計な差し戻しが減る。そう思ったのです」

講座に来るのは、王宮の作法に慣れた者ばかりではない。

菓子屋、布屋、紙商、清掃組合の者。

王宮へ何かを納めたり、返したり、引き取ったりする者たちが、失礼のない書き方を知りたがる。

そこへ「これを使えば間違いが減る」と言われれば、便利な見本に見えてしまう。

「その文例は、どこから来ましたの」

レイベルナが尋ねる。

セヴィルは受講者名簿を握る手に力を込めた。

「文書院の方からいただきました。王宮外門受付所の書類棚にあった添え状の文例だから、私の講座の業者向け教材として使えるかもしれない、と言われまして」

トマスが小さく反応した。

「文書院の……方ですか」

レイベルナはトマスの方を見る。

「何か心当たりがありますか?」

「たしかに、文書院には外門受付所にも席があります。僕のいる受理室とは別ですが、商人や納品業者など外部の方に、書類の出し方や見本などを案内している場所です」

レイベルナはセヴィルへ視線を戻した。

「その方の名は?」

セヴィルは困ったように眉を寄せた。

「申し訳ありません。名前までは……。以前、私の講座に参加していた方だとは思います。ただ、その時は受講者の一人として見ただけでしたので」

「その方から受け取ったのは何ですか?」

「書類棚にあった添え状の文例です。申請の提出物に添えて使う文面だと説明されました」

「はい。外門受付所の書類棚にあるものなら誰でも見られますし、必要なら持ち帰れるものだと聞きました。王宮側が確認して置いた見本なら、講座で扱っても問題ないと思いまして……」

レイベルナは小さく息を吐いた。

流れがようやく見えてきた。

王宮外門受付所の書類棚に、添え状の文例があった。

文書院の者がそれをセヴィルへ渡し、セヴィルが講座で紹介した。

それを聞いたガスパルが、封筒に添える商品にした。

そして、白鳩屋や他の店を通して広がった。

筋は通る。

ただし、その添え状の文例が本当に王宮側で確認されたものだったかどうかは、まだ分からない。

「一人が全部やったんじゃないんすね」

ラウルが顔をしかめた。

「そこが、この件の嫌なところですわ」

レイベルナは添え状へ視線を落とした。

「それぞれは、便利だと思って次へ渡しただけかもしれません。でも、その便利さを使えば、何を外へ出すのかをぼかせる。責任も、少しずつ薄くできる」

セヴィルの顔から血の気が引いていく。

「そんな使い方をするつもりは……」

「あなたがそう使うつもりだったかは、これから確認します」

レイベルナは静かに言った。

「ですが、あなたが講座で紹介したことで、この文面は外へ広がりました。だから、あなたには説明していただきます」

セヴィルは受講者名簿を胸元に抱えるようにして、深く頭を下げた。

「わ、分かりました。私の講座帳には教材を受け取った日や紹介した日の記録があります」

「その記録は残っていますね」

「はい。講座で扱った教材の控えも残しております」

「では、次は、その文例をあなたに渡した方に確認しますわ」

レイベルナは鈴を持つ手を、一度だけ下ろした。

ここ最近、短い間に何度も鳴らしている。

音は澄んでいるのに、体の奥だけが少し重い。

これまでは、呼んだ相手がどんな姿で現れるかに気を取られていた。

今は責任の糸を一本ずつたぐるたび、銀の音が自分の内側も少し削っているような感覚があった。

それにセドリックがすぐ気づいた。

「レイベルナ嬢、顔色が悪いです」

「……少しだけです」

「休まれますか」

「いいえ、ここで止めると、責任の糸が細くなるかもしれませんわ」

セドリックは一歩近くに立った。

「では、隣におります」

それだけだった。

けれど、レイベルナの指先に残っていた冷たさが、少しだけ遠のいた。

レイベルナは銀の鈴を鳴らした。

――チリン。