軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第40話 若返りたい商会長

――チリン。

銀の音が消えるより少し遅れて、監査室の中央にまん丸のお腹の男が現れた。

男は床に仰向けだった。

白い布を肩にかけ、両手を腹の上で組み、顔の右半分だけに白い膏薬のようなものを厚く塗られている。左半分は何もされていない。右頬だけが、白く艶やかだった。

監査室の誰もが黙っていた。

猫だけが、みゃ、と小さく鳴いた。

すると男は、寝台にいるつもりなのか、目を閉じたまま口を開いた。

「……左はまだかね」

誰も答えなかった。

「おい、左側がまだだぞ。右だけ先に若返ってしまうではないか」

そこでようやく、男は片目を開けた。

目に入ったのは、さっきまで自分がいた美容施術サロンの天井ではなかった。

王宮監査室の高い天井だった。

男はゆっくり起き上がり、真っ白な右側と年相応の左側をした顔を、王宮の面々へと向けた。

向けるしかなかった。

「……ゆ、夢ですかな。ここは、施術室ではありませんな?」

「目が覚めれば分かりますわ」

レイベルナは、なるべく顔の左右差を見ないようにした。

見ないようにすると、余計に目立った。

財務卿が猫を抱いたまま、重々しく頷く。

「これはまた、大変片寄った状態で呼ばれましたな」

「財務卿、顔の状態をそのまま口にしないでくださいませ」

「しかし、右だけ処理済みで、左は未処理。帳簿であれば即時確認案件ですぞ」

「顔を帳簿にしないでください」

現実逃避しかけていた男は、慌てて顔の左側を手で隠した。

「わ、私はガスパル商会のガスパル・ベレンです。紙や封筒を扱っております。これは、その……今日は商談ではなく、休憩中のお手入れでして」

「左側を隠されると、誰かわかりませんわ。それより、あなたがお売りしている封筒の話をお願いします」

「ふ、封筒ですかな? 何の封筒のことか……」

ラウルが干し肉を押さえたまま、ぼそっと言った。

「右だけ若返るの、けっこう怖いっすね」

「責任者とは、なぜこうも片側だけ整っていないときに呼ばれるのか。髭の主任を思い出しますな」

トマスが真顔でうなずいた。

「主任はあの後、半分髭のまま確認印を押しておりました。顔より先に書類を整えろと上から言われたそうです」

「王宮の優先順位が厳しすぎますわ」

レイベルナは机の上の添え状付き封筒を指差した。

「ガスパルさん。白鳩屋へこの添え状付き封筒を商品として納めましたね」

ガスパルの左頬が青ざめた。

右頬は白い膏薬のせいで、変化が分かりにくかった。

「は、はい、納めました。ただの、王宮向け後処理封筒です。茶会や式典のあと、引き取りや搬出の申請に使える便利な品でして……」

「便利すぎましたわ」

リゼットが三枚の添え状を並べる。

「菓子箱と配達袋の返却。布の引き取り。紙類の処分。申請内容は違いますが、同じ添え状が付いていました」

ガスパルは右頬を押さえたまま、その添え状を覗き込んだ。

「え、ええ、この商品です。宛名と日付と差出人だけ書けば、申請全般に使えるようにしてあります。王宮向けの言い回しに困る業者には評判がよく……」

「その『全般』が問題ですわ」

レイベルナは静かに言った。

「この添え状では、何を外へ出すのかがはっきりしません。菓子箱を返すのか、配達袋を返すのか、布を引き取るのか、余った紙を処分するのか。中身が違っても、同じ文で通せてしまいます」

ガスパルの口が半分開いた。

顔の左側だけが驚いている。

「そ、それは……何にでも使える方が便利だと考えまして。王宮向けの言い回しを間違えずに済むのが、この商品の売りで……」

「たしかに、使う側にとっては便利ですわね」

レイベルナは頷いた。

「けれど、悪用する者がいれば、その便利さは何を外へ出すのか、対象をぼかす道具になります」

ガスパルの左頬が、さらに青くなった。

「そ、そんな使い方をする者がいるとは……」

「だから確認しています。あなたがそう使うつもりだったかではなく、この封筒がどこまで広がったかを」

レイベルナは封筒から目を離さずに続けた。

「まず、白鳩屋以外にも納めたのか、答えてください」

「た、たしか……外門前の文具屋、清掃組合の受付、外門取次所に出入りする業者がよく寄る茶屋に置きました。あとは、書類や荷を王宮へ預けに来る人が立ち寄りそうな店にも、少しずつ……」

ラウルが顔をしかめた。

「かなり広がってるっすね」

「広げすぎず、足りなくもない。実に嫌な配り方ですな」

財務卿が言う。

猫は封筒よりも、ガスパルの顔半分を見ていた。

レイベルナはガスパルを見据える。

「この添え状の文章を考えたのは、あなたですか」

「こ、これは違いますぞ。私は紙商です。文の内容までは作れません。これは、王都代書人協会の講座で紹介された文例をもとに、私の商会で封筒と添え状を組み合わせた商品ですので」

「王都代書人協会……?」

リゼットの目が細くなった。

怪しい名ではない。むしろ、王都に普通にありそうな名だった。だからこそ今は違和感が強かった。

「その講座で、この添え状に使えそうな文例を知ったのですね」

「はい。王宮へ書類を出す外部業者向けに、こういう添え状の形があると便利だ、と。店先に置けば喜ばれると思いまして。実際、先日より置き始めましたが、かなり売れているようです。王宮向けの言い回しに困る人は多いですからな」

「その講座で文例を紹介していたのは誰ですか?」

ガスパルは視線を落とした。

「たしか、セヴィル・ロークという講座の担当者です。若いですが、王宮文書に詳しいと評判で……」

セドリックの手が、わずかに剣の柄へ近づいた。

レイベルナは銀の鈴へ視線を落とす。

ガスパルは黒幕には見えない。それは今の様子や話している内容からもわかる。

だが、危うい商品を広めた責任は大きい。

そして、その先にはこの添え状を広めたい誰かがいる。

「ガスパルさん。その講座の受講控えやあなたが納品した先の控えなどはありますわね?」

「はい、あります。商売ですから控えは全て残しております。ですが、今は……ここが王宮ならば、手元には……」

「戻ればありますね」

「は、はい! 戻ればあります。顔の左側も戻れば塗れます」

「そこは、すべて終わってからで結構です」

財務卿が真剣に頷いた。

「いえ、左右の帳尻は早急に合わせるべきですな」

「財務卿」

「……顔の話ではありませんぞ」

「今のはそう聞こえましたわ」

ガスパルは片頬だけ白いまま、小さく肩を落とした。

レイベルナは鈴を掲げる。

繋がっている責任の糸はまだ細い。

けれど、講座で学んだことを商品にし、店へ納めた流れが記録として残っている。

説明を求めるだけの責任が、そこには結びついていた。

呼ぶべきはその講座の者――。

レイベルナは鈴を揺らした。

――チリン。