作品タイトル不明
第42話 桃色の便箋
――チリン。
銀の音が響いた。
次の瞬間、監査室の中央に若い女性が現れた。
その拍子に床へ落としてしまった桃色の便箋を見て、彼女は息を吸った。
「――い、いやあああああああ!!?」
猫が跳んだ。
鳩が飛んだ。
ラウルが干し肉を落としかけた。
財務卿は猫を抱え直し、ニノは慌てて両手を上げる。
「ポポ、戻って! たぶん敵じゃない!」
「たぶん、を付ける状況ではありませんぞ!」
白い鳩は監査室の梁の下を一周し、財務卿の腕の中では猫が完全に狩る目になっていた。
若い女性は顔を真っ赤にしながら、床に落ちた便箋へ飛びついた。
「よ、読まないでください! これは提出書類ではありません!」
誰もまだ、何も聞いていなかった。
ラウルが、拾い損ねた便箋の端にちらりと目をやる。
「えーと……何々、『あなたの笑った横顔が』――」
「読まないでくださいぃいい!!」
女性の悲鳴が、二度目に監査室を揺らした。
鳩がもう一度飛びかけた。
猫ももう一度跳びかけた。
財務卿とニノが、ほぼ同時にそれぞれを押さえた。
「すみませんっす! 字が大きかったんす!」
「字の大きさの問題ではありませんわ」
レイベルナは静かに言った。
財務卿が猫を押さえたまま、重々しく頷く。
「私的文書ですな。監査対象外であることを心より祈ります」
「か、監査しないでください! 本当に、そこだけは!」
若い女性は桃色の便箋を胸に押し当て、息を整えようとして、まったく整わないまま深く頭を下げた。
「わ、私はミレイユ・アーレンです。文書院から王宮外門受付所へ出て、文書院担当席を手伝っております……」
トマスが小さく頷いた。
「やはり、外門受付所の方でしたか」
「はい。私は外門受付所の文書院担当席におります。商人や代書人の相談、納品控えの確認、書類棚の整理などを手伝っています」
王宮外門受付所は、王宮外門の脇にある外部向けの窓口だった。商人や納品業者、代書人は王宮の奥へ入れないため、そこで書類や荷を預ける。
ミレイユは便箋を胸に押し当てたまま、必死に真面目な顔を作った。
便箋の色だけが、まったく真面目ではなかった。
「ですから、休憩中に私的な文を書いていても、職務放棄ではありません。たぶん」
「たぶん、を自分で付けないでくださいませ」
レイベルナは机の上の添え状付き封筒を示した。
「ミレイユさん。あなたは外門受付所にあった添え状の文例を、王都代書人協会の講座で使える見本として、セヴィルさんへ渡しましたね」
ミレイユの顔から、一気に血の気が引いた。
桃色の便箋を抱えているせいで、なおさら分かりやすかった。
「わ、渡しました。ですが、王宮が正式に使うと決めたものだとは言っていません。外門受付所の書類棚にあった文例なので、講座で使えるかもしれないと思いまして……セ、セヴィル先生へお渡ししただけです」
「セヴィル先生?」
ラウルが小さく首を傾げる。
その瞬間、ミレイユの視線が、監査室の端で受講者名簿を抱えていたセヴィルへ向いた。
向いてしまった。
セヴィルは戸惑った顔で、ミレイユを見返していた。
「……もしかして、以前、講座に来てくださった方ですか」
その程度だった。
その程度だったのに、ミレイユの顔は便箋よりも赤くなった。
「い、いやぁぁぁああああああああ!!?」
三度目だった。
猫がまた跳びかけた。
鳩もまた飛びかけた。
ラウルは今度こそ干し肉を落とした。
「なぜまた叫びましたの」
レイベルナが静かに尋ねる。
「セ、セヴィル先生が……私を……講座にいた人だと……覚えていただけていた……みたいでしたので!」
「覚えていたというより、今思い出しただけではありませんかな」
財務卿が猫を押さえながら言った。
「今そこを正確にしないでください!」
「では、私的文書の宛先がこちらに同席していた件に戻りますかな」
「も、戻らないでください!」
セヴィルは困ったように眉を寄せた。
「ですが、文面の書き方で困っているなら、添削くらいは――」
「絶対に添削しないでください!」
ミレイユは便箋を抱えて叫んだ。
「それをされたら……私はもう外門受付所へ戻れません!」
セヴィルは完全に固まっていた。
たぶん、分からないままの方が平和だった。
レイベルナは机の上の添え状付き封筒を見つめる。
桃色の便箋は監査対象外。
けれど、書類棚から外へ出た文例は違う。
レイベルナは咳払いを一つして、ミレイユを見た。
「私的なお手紙の内容は聞きませんわ」
ミレイユが、ほんの少しだけ安堵しかける。
その安堵が終わる前に、レイベルナは続けた。
「ですが、この添え状に使えそうな文例を、セヴィルさんへ渡した理由はお聞きしますわ」
ミレイユは、固まった顔で胸に押し当てていた桃色の便箋をぎゅっと握りしめた。