作品タイトル不明
第37話 文書院のトマス
扉から入ってきたのは、王宮文書院の文書受理室に異動したトマス・リードだった。
ただし、《呼び鈴》で呼んだわけではない。
トマスのもとへ人を送り、普通に呼んだ。
それなのに、トマスは片手に丸いパンを握っていた。
「お、お呼びでしょうか!」
レイベルナは思わずその手元を見た。
「……トマスさん。今日は普通にお呼びしましたが、パンをお持ちなのですね」
トマスは自分の手を見下ろして青ざめた。
「ち、違います! これは食べようとしていたところで呼ばれたので、そのまま持ってきてしまっただけです!」
「置いてくる時間はなかったのですか」
「監査室から呼ばれた時点で、置き場所を考える余裕がなくなりました!」
「その反応は正しいですぞ」
財務卿が猫を抱いたまま、しみじみと頷いた。
「監査室に呼ばれて、平然とパンを置いてこられる方が少数派ですな」
「財務卿、監査室を怖い場所みたいに言わないでくださいませ」
トマスはパンをさらに強く握った。
入口の木箱の近くにいたラウルが、なぜか胸を張る。
「俺は干し肉を持ってきてるっす」
「対抗しなくて結構ですわ」
財務卿の猫だけが、パンと干し肉を順番に見ている。
「猫さん、これは僕の昼食です」
トマスが小さく言った。
「こちらも俺の昼飯っす」
ラウルも干し肉を押さえる。
財務卿は猫を抱き直した。
「猫は見ているだけですぞ。今のところは」
「今のところってのが怖いっす」
トマスは丸いパンを胸元へ寄せた。
「前の封蝋印の件以来、書類を通す前にはまずパンを見ることにしていまして」
「……なぜパンを?」
セドリックが真顔で尋ねる。
「落ち着くためです」
「効果はあるのですか?」
「あるので、パンを食べられなくなりました」
レイベルナは握られているパンを見た。
「そのパン……いつのものですか」
「昨日です」
ラウルが腰の干し肉を軽く叩いた。
「俺のは日持ちするっす」
「張り合わないでください」
食べ物をめぐる小さな緊張は、リゼットが三枚の書類を机に広げたところで終わった。
「トマスさん。あなたが止めたのはこの三件ですね」
「は、はい」
トマスの顔つきが変わった。
先ほどまでの慌てた様子は残っていたが、目だけは書類へ向いている。
「先ほど確認した、王宮の外へ物を運び出す三件です。どれも申請書類そのものだけなら、茶会後の片付けとしてあり得るものでした」
「けれど、添え状が違ったのですね」
「はい。書類には持ち出す物が具体的に書かれていました。けれど、添え状では『関係物品』や『後処理一式』という広い言い方でまとめられていたんです」
トマスはパンを握ったまま、机の書類を見た。
「しかも、三件とも同じ添え状でした。菓子箱と配達袋の返却も、布の洗濯引き取りも、紙類の処分も、本来は別々の手続きです。それなのに添え状だけを見ると、全部まとめて後処理として扱えそうに見えました」
レイベルナは添え状へ目を落とした。
後処理。
その言葉だけなら、何もおかしくない。
だが、王妃陛下のお茶会が利用された直後の王宮で、その言葉はもう安全な言葉ではなかった。
「普段ならここまで細かくは……見落としたかもしれません。でも今は、黒い紙の件で受理室にも通達が出ています。書類と添え状の内容が合っているかまで見るようになっていますから、止められました」
「書類自体に書かれた指定は限られていたのですね」
「はい。菓子屋さんなら菓子箱と配達袋。布屋さんなら円卓用の布や日除け布です。そこまでは分かります」
トマスは、添え状を指さした。
「でも添え状では、それが全部『関係物品』や『後処理一式』になっていました。これがそのまま受理されて許可へ回れば、現場では許可済みの後処理品として流れてしまうかもしれません」
「門で一つ一つ中身まで確認するとは限らない、ということですね」
セドリックが低く言った。
トマスは頷いた。
「はい。門番は許可が出ているか、誰が持ち出すのか、外へ出す手続きが通っているかを見ます。そこで毎回、申請書類の細かい対象まで全部突き合わせられるとは限りません」
トマスはパンを握り直した。
「菓子屋さんや布屋さんが悪いと言っているわけではありません。ただ、この添え状が通れば、王宮から外へ物を出す流れができます。その流れに、別の物を紛れ込ませようとする人がいたら、止めにくくなると思ったんです」
監査室の空気が、少しだけ重くなった。
菓子箱。配達袋。布。そして、紙類。
これら自体は、普通の後処理で処分などの対象だ。
だが、普通の流れができたあとに、この中に何かを混ぜる者がいるかもしれない。
その可能性が、一番嫌だった。
財務卿が猫の背を撫でる手を止めた。
「通りやすい顔をした、通してはいけない書類ですな」
「はい」
トマスは少しだけ肩の力を抜いた。
「よかった……。パンを見て落ち着くことができたので、しっかり止められました」
「ただ、そのパンはもう食べない方がよさそうですわ」
トマスは少し悲しそうにパンを見下ろした。
レイベルナは机に並んだ三枚の書類と、そこに添えられた同じ添え状を見た。
どれも申請書類だけなら、茶会の後処理に見える。
けれど、今回の添え状があると、まるでひとまとめの後処理のように見えてきた。
「では、この添え状がどこから来たのかを確認しましょう」