作品タイトル不明
第35話 その鈴を鳴らすには
――責任者名は空欄可。
その一行を見た瞬間、レイベルナの指先が止まった。
見覚えのある黒い紙だった。
リディア侍女長がそれを拾い、表と裏を確かめる。
「署名や印はありません。宛名も……ありません」
王妃陛下の目が細くなった。
「レイベルナ嬢。報告を受けてはいましたが、これは白百合慈善院の件と同じものですか」
「はい。似ていますわ」
レイベルナは黒い紙を見つめた。
白百合慈善院のときも、正式な文書の中で責任者の名だけが空欄になっていた。
受け取った者がいた。
運んだ者がいた。
保管した者がいた。
処理した者がいた。
けれど、それぞれの言い分は「自分は一部を任されただけ」だった。
責任の糸は細く続いている。
ただ、最後に全体の責任へ届くはずの場所だけが空欄だった。
「何が空欄だったのですか」
フィーランド侯爵夫人が低く問う。
「今回で言えば、王宮茶会進行係の責任者名ですわ」
レイベルナは、青い封筒とマレーネの私用の控えを見た。
「青い封筒にも、協力金の控えにも、『王宮茶会進行係』という名前があります。けれど、誰が発行したのか、誰が許可したのか、その名だけはありません」
レイベルナは、マレーネへ視線を戻した。
「ただ、今回はそこで終わりませんでした。マレーネさんはサロンの伝言箱を使い、青い封筒を仕分け、協力金の控えを扱い、取扱手数料まで取りました」
マレーネの肩が、びくりと震える。
「責任者名を空欄にしても、動かした手と受け取ったお金までは消せません。だから今回は、マレーネさんのところに責任の糸が残ったのです」
「で、では、私は……」
「今回、王宮の名を使って金を集めた中心人物です」
王妃陛下が静かに告げた。
「黒い紙があったとしても、あなたの罪は消えません。私の茶会を売り物にし、王宮の名で金を集めたのはあなたです」
マレーネは口を閉ざした。
もう言い逃れは残っていなかった。
リディア侍女長が、黒い紙を折らずに持つ。
「この紙を置いた者は、マレーネを助けたかったのでしょうか」
「いいえ」
レイベルナは首を横に振った。
「助けるつもりなら、もっと具体的な手順を書いたはずです。ですが、具体的に書けば書くほど、その紙には責任が生まれます。だから黒い紙は短い言葉しか残さない」
――責任者名は空欄可。
たったそれだけ。
「それを見た者が自分の欲や都合で勝手に動く。動いた者が失敗すれば、その者だけが捕まる。成功すれば、黒い紙を置いた側は表に出ない」
東庭の空気が、静かに冷えていった。
「白百合慈善院ではその手口で奥までは届きませんでした。今回は、マレーネさんが手数料や記録を残しすぎたため、マレーネさん自身の責任には追いつけました」
レイベルナは、銀の鈴に触れた。
フィーランド侯爵夫人が、かすれた声で言う。
「……では、その紙を置いた者を呼べばよいのではありませんか」
東庭にいる貴婦人たちの何人かも、同じことを思ったのだろう。
扇の陰で、息を呑む気配がした。
レイベルナは、黒い紙から目を離さずに答えた。
「《呼び鈴》は、紙に書かれた文字を追う力ではありません。書類や記録に残った責任へ、音を届かせる力です」
「では、この紙には?」
「はい、まだ届きません。書いた者、置いた者、運んだ者。その誰に、どの責任が結ばれているのか、今はまだ読めないからです」
フィーランド侯爵夫人が唇を震わせた。
「それでも、誰かを呼べば⋯⋯何か分かるのではなくて?」
「分かることはあるかもしれません。ですが、何の責任で呼んだのかも分からないまま、誰かを犯人のように呼び出すことはできませんわ」
そこで、王妃陛下が口を開いた。
「――ですが、このまま放置はしません」
その一言で、庭の空気が変わった。
「リディア」
「はい」
「青い封筒や協力金の控え、伝言箱や倉庫の利用記録。今ここにあるものは、すべて押さえなさい」
「承知いたしました」
「私の茶会の名でお金が動いた以上、王宮として調べます。国王陛下への報告も、私から上げます」
リディア侍女長が、即座に近くの侍女へ指示を飛ばした。
近衛兵の一人が走り出す。
「金の流れは財務卿へ。書類は監査室と文書院へ。門と馬車の出入りは近衛へ回しなさい」
王妃陛下は、そこでレイベルナを見た。
「記録を集めます。そのうえで逃げた者がいるなら――」
王妃陛下の視線が、銀の鈴へ落ちた。
「――レイベルナ嬢、頼みますわ」
レイベルナは深く礼をした。
「はい。必ず、真相を突き止めます」
王妃陛下は、東庭にいる者たちをゆっくり見渡した。
「本日のお茶会はここまでとします。集められた協力金については、王宮監査がすべて確認します。関係者は、呼ばれる前に自ら記録を出しなさい」
誰も異を唱えなかった。
「次に私が茶会を開くとき、それは見物席はありません。王宮の名を借りた遊びも……決して許しません」
静かな声が、東庭の隅々まで届く。
集まっていた貴婦人たちは、一斉に深く頭を下げた。
近衛兵がマレーネたちを連れていく。
フィーランド侯爵夫人は閉じた扇を握ったまま、深く頭を下げていた。
フィーランド侯爵は、ようやく離せた薔薇を見下ろしている。
エヴァリナは青い封筒を差し出し、震える声で調査に応じると答えた。
刷り屋のマルクは、刷りかけの案内紙を抱えたまま、庭の端で小さくなっていた。
東庭にいることすら忘れられていたらしい。
「マルクさん」
レイベルナが声をかけると、マルクはびくりと肩を跳ねさせた。
「は、はい! ち、注文を受けたときの控えも、全部渡します」
リディア侍女長が横にいた侍女へ目配せし、刷りかけの紙束を受け取らせた。
オルベルト・カインだけが、細い定規を胸に抱えたまま、そっと椅子の方へ向かう。
「ただのオルベルトとして、椅子の位置および角度を元に戻してまいります」
「ただ片付けるだけで結構です」
リディア侍女長が即座に告げた。
扇の陰で、誰かがまた小さく息を漏らした。
「まぁ……オルベルト様、ようやく立ち上がりどきを見つけられましたのね」
オルベルトは定規を胸に抱え、深く頭を下げた。
リディア侍女長が押収品をまとめていく。
そして、一番上に置かれた黒い紙。
――責任者名は空欄可。
レイベルナは、その一行を見つめた。
王妃陛下の命で、お金と書類、門や馬車の出入りまで調べられるだろう。
その中で、もし責任の結び目が見えたなら。
レイベルナは銀の鈴をそっと握った。
「⋯⋯必ず呼び戻しますわ」
セドリックが彼女の少し後ろへ歩み寄る。
「最後まで護衛します」
短い言葉だった。
だが、その一言だけで、足元が少し強くなる。
「ありがとうございます。セドリック卿」
セドリックはわずかに頷いた。
黒い紙はまだそこにある。
署名もない。
印もない。
名前も書かれていない。
――黒い紙。
それは鈴の音から逃げるために空けられた、暗い穴のようだった。