作品タイトル不明
第34話 王宮の信用
「リディア侍女長、その紙束をお願いします」
レイベルナが言うと、リディア侍女長が石畳に落ちた小さな紙束を拾い上げた。
マレーネが、喉の奥で息を詰める。
「そ、それは私用の控えでございます。サロンの正式なものではございません」
「正式でない方が、正直なこともありますわ」
レイベルナが静かに言うと、マレーネは何も返せなかった。
紙束はきちんとした帳簿ではなかった。
短い覚え書きと、封筒を見分けるための印。
金額らしい数字。
受け渡し先を間違えないための符号。
紫薔薇サロンの伝言箱、青い封筒、協力金、そして馬車の目的地の西通りの倉庫。
文章として読めば、一つ一つはただの作業メモに見える。
だが、並べると分かる。
マレーネは青い封筒をただ見ただけではない。
誰へ渡すかを仕分け、どこへ回すかを控え、その結果、お金がどう動くかを管理していた。
リディア侍女長の目が冷えた。
「これは正式な帳簿ではありません。ですが、作業の跡としては十分です」
王妃陛下は紙束を見下ろした。
「王宮茶会進行係」
その名は、青い封筒にも、座席の案内にも使われていた。
けれど、王宮のどこにも存在しない係。
「整理しましょう」
王妃陛下の声は静かだった。
「私が決めた正式な席次は、変えられておりません。ですが、あなた方はその席に勝手な値をつけた。呼び鈴が見えやすい、椅子の角度を整えればよく見える、そう言って協力金を得たのですね」
マレーネは俯いた。
「せ、席を売ったわけではございません。ほんの少し、見えやすくするだけで……価値が……」
「言い方を変えても同じです」
リディア侍女長の声が冷たく落ちた。
「王妃陛下のお茶会を、見物のための場所として扱ったことに変わりはありません」
地面にいたオルベルト・カインが、細い定規を握りしめたまま低くつぶやいた。
「私は、王妃陛下のお茶会を整える仕事だと聞いておりました。まさか、勝手に値段をつけるための角度を測っていたとは……」
オルベルトは地面に伏せたまま頭を下げた。
王妃陛下の視線は、マレーネへ戻る。
「青い封筒を使い、王宮茶会進行係という名で連絡を回す仕組みを作ったのは、あなたですね」
マレーネは言葉につまる。
しばらく沈黙が流れた後、観念したように話し始めた。
「……最初は、ほんの案内のつもりでした」
声を絞るように小さな声で続ける。
「呼び鈴を見たい方が多くいらっしゃいました。少しでも近くで見たいとおっしゃって……青い封筒を通せば疑われませんでした。王宮茶会進行係の名があれば、私のようなただの幹事役にも、皆様が頭を下げてくださって……」
「お金と偽りの権限が欲しかったのですね」
マレーネは答えなかった。
だが、その沈黙が答えだった。
「王宮の知らぬところで、王宮の名を持つ係を作る。それは余興ではありません。王宮の名を使った偽装行為であり、犯罪です」
「わ、私は、そこまで大きなことをするつもりでは……」
「王宮の名でお金を集めておいて、小さなことだと思っていたのですか」
リディア侍女長の言葉に、マレーネの肩が震えた。
レイベルナは、庭に落ちていた青い封筒へ視線を向ける。
「王宮の名を使えば疑われにくい。紫薔薇サロンの伝言箱を使えば、上品な会員同士の連絡に見える。侯爵家の馬車を使えば、裏門も通れる。そう考えたのですね」
マレーネはまた黙った。
フィーランド侯爵は、薔薇を落とすこともできずにうつむいている。
エヴァリナは青い封筒を胸元で握りしめ、震えていた。
フィーランド侯爵夫人はマレーネだけを見ていた。
「私は、今回の呼び鈴の件を面白がったことまで否定はいたしません」
フィーランド侯爵夫人が、呟くように言った。
「呼び鈴が見られるなら社交の話題になる。王妃陛下のお茶会が少しでも盛り上がるならよいと、浅く簡単に考えてしまっておりました。これは私の完全な落ち度でございます。ただ、私のサロンを隠れみのにして、王宮の偽の係を作り、お金を集めることまで許した覚えはありません」
「奥様……」
「私に隠していた時点で、あなたは私の幹事役ではありません。私のサロンを盗んだ者です」
マレーネの顔が歪んだ。
だが、もう泣いて逃げられる場ではなかった。
王妃陛下が静かに言った。
「西通りの倉庫。サロン用の倉庫ですか?」
マレーネの肩が跳ねる。
「そこの鍵もあなたの鍵束にありますね」
「……はい」
「リディア」
「はい」
「近衛と監査係を連れて倉庫を開けなさい。青い封筒、協力金の控え、座席案内、馬車に渡す予定だった封筒、倉庫の出入りに関わる記録。すべて押収します」
マレーネが慌てて顔を上げる。
「ま、待ってください。あそこには、サロンの私物もございます。王宮の方に見られるようなものでは……」
「王宮の名でお金を集めた場所に、私物という逃げ道はありません」
マレーネは、それ以上言えなかった。
鍵束が、リディア侍女長の手に渡る。
さきほどまで寝ぼけたように揺れていた鍵束が、今は別の音を立てた。
逃げ道が閉まる音だった。
近衛兵がマレーネの両側に立つ。
「マレーネ・ガルシュ」
王妃陛下が告げた。
「あなたは、王宮の名を偽り、私の茶会を売り物にし、紫薔薇サロンと侯爵家の名を利用しました。身柄を近衛に預けます。今後、記録とお金の流れをすべて話しなさい」
「お、お許しを……!」
「私に許しを乞うだけで済む話ではありません」
王妃陛下の声は、少しも揺れなかった。
「あなたが売ったのはただの席ではありません。王宮の信用です」
マレーネの肩が落ちた。
王妃陛下の視線は、次にフィーランド侯爵夫人へ移った。
「フィーランド侯爵夫人。あなたは今回の主犯ではありませんが、呼び鈴を余興のように扱う空気を作り、自分のサロンの管理を怠りました。紫薔薇サロンは当面閉鎖し、伝言箱と倉庫の記録をすべて王宮監査へ提出しなさい」
「はい、承知いたしました」
フィーランド侯爵夫人は、深く頭を下げた。
「フィーランド侯爵」
「……はい」
「侯爵家の馬車と家名を軽く扱い、裏門への道を開いた責任があります。処分が決まるまで、王宮への出入りと侯爵家馬車の王宮通行を禁じます」
「承知いたしました」
侯爵は、ようやく手から薔薇を落とした。
石畳に落ちた花は、もう美しくは見えなかった。
「エヴァリナ・ミルゼ」
「は、はい……」
「あなたは青い封筒の受け渡しに関わりました。軽い社交のつもりでも、これは王宮の名を使った不正の一部です。まずは全面的に調査に協力しなさい。責任を調べます」
「はい……」
エヴァリナは青い封筒を握ったまま、震える声で答えた。
王妃陛下の視線が、最後に地面へ向いた。
「そして、オルベルト・カイン」
「は、はい。この姿勢のままで失礼いたします」
「まず立ちなさい」
オルベルトは、細い定規を握ったまま、ようやく立ち上がった。
膝には庭の砂がつき、茶会座席演出士という響きだけは立派な肩書きが、今は少しも立派に見えない。
「あなたは王宮に存在しない係の名を信じ、王妃の茶会の席に要らぬ手を加えました」
「申し開きもございません」
「今日あなたが測った椅子と卓は、すべて元の位置へ戻しなさい。ただ、リディアの確認が終わるまでは、一本の椅子の脚も勝手に動かしてはなりません」
「承知いたしました。自称、茶会座席演出士、責任をもってこの演出を元に戻します」
リディア侍女長が、すぐに告げた。
「自称は不要です」
「……はい。ただのオルベルトとして戻します」
扇の陰で、誰かが小さく息を漏らした。
「ようやく、立ち上がりどきを見つけられましたのね」
オルベルトは定規を胸に抱え、深く頭を下げた。
リディア侍女長が押収品をまとめていく。
青い封筒や協力金に関する控え。
マレーネの作業用の控え。
その一番下から、色の違う紙が一枚だけ滑り落ちた。
黒い紙。
レイベルナの視線が、そこで止まる。
そこには、短く一行だけ書かれていた。
――責任者名は空欄可。