作品タイトル不明
第33話 紫薔薇サロンの伝言箱
凍りついた空気に、呼ばれた婦人だけがまだ気づいていなかった。
「今は朝ではありません。私のお茶会の最中です」
王妃陛下が静かに告げた。
婦人のまぶたが、そこでようやく動いた。
薄く開いた目が、まず空を見た。
次に、周囲の花々と白い円卓の並ぶ東庭を見た。
それから、目の前に立つ王妃陛下を見た。
「……」
婦人の口が、開いたまま固まった。
手に持っていた焼き菓子から、小さな欠片がぽろりと落ちる。
婦人は慌てて起き上がろうとした。
だが、体に掛かっていた薄い膝掛けが足に絡まり、上品とは程遠い形で、王妃陛下の前に転がった。
倒れた先で、細い定規を握った男と目が合った。
オルベルト・カイン。
先ほどから王妃陛下の前で這いつくばったまま、立ち上がる機会を完全に失っていた男である。
「……ご、ごきげんよう」
「この姿勢でご挨拶を返すべきか、先ほどから悩んでおります」
扇の陰から、貴婦人たちの声が落ちた。
「まあ……自称茶会座席演出士のオルベルト様、そういえば、まだ地面にいらっしゃったのね」
「たぶん、立ち上がりどきを失ったのですわ」
転んだ拍子に、婦人の手から鍵束が石畳へ落ちた。
さらに、膝掛けの折り目に挟まっていた小さな紙束も一緒に滑り落ちる。
婦人は焼き菓子ではなく、その紙束へ手を伸ばしかけた。
レイベルナの視線が、そこへ落ちる。
「隠す順番は、そちらで合っていますのね」
婦人の手が止まった。
「……マレーネ・ガルシュ」
横から発せられたフィーランド侯爵夫人の声は、ひどく低かった。
マレーネは、その声で完全に目を覚ましたらしい。
顔色が、一気に変わる。
「お、奥様……? なぜこちらに……いえ、ここは……」
「王妃陛下のお茶会です」
リディア侍女長が、短く告げた。
「そしてあなたは今、王妃陛下のお庭でいびきをかいて眠り、王妃陛下に向かって怒鳴りました」
「ひっ……!」
「まず、姿勢を整えなさい」
マレーネは青ざめたまま膝掛けを外し、焼き菓子を袖へ押し込みかけたが、結局手の中に戻した。
レイベルナは、転がった鍵束と紙束を見た。
「マレーネさん。紫薔薇サロンの伝言箱を管理しているのは、あなたですか」
「は、はい。奥様から、会員の伝言と招待状の控えを任されております」
「では、中に入ったものを取り出し、仕分けるのもあなたの役目ですね」
「そ、それは……はい。急ぎのものや宛名のあるものは、私が……仕分けます」
フィーランド侯爵夫人の目が冷えた。
「マレーネ。青い封筒を知っておりましたのね」
「それは、はい。ですが、奥様、私は中身までは見ておりません。王宮茶会進行係の連絡分とありましたし、王宮のお手伝いに関わるものだとばかり……」
「王宮にそのような係はありません」
リディア侍女長の声が、また短く落ちた。
マレーネの肩が跳ねる。
「そ、そんなはずは……。だって、青い封筒には王宮茶会進行係とありました。中の案内にも、席のこと、馬車のこと、協力金の控えのことが書かれていて……そういうものは全部そちらへ回すようにと……」
庭が一瞬だけ静かになった。
王妃陛下の目が細くなる。
「協力金の控え、ですか?」
マレーネは、そこで自分の口が滑ったことに気づいた。
「い、いえ、私は詳しくは存じません。見やすい席を希望された方が、お茶会の進行に協力するためのお金だと聞いておりまして……」
フィーランド侯爵夫人は、ゆっくり息を吸った。
「中身を見ていた⋯⋯ということですね。私のサロンを、そのような受け渡し場にしていたのですか……」
「わ、私は集めておりません。伝言箱に入っていた封筒と控えを仕分けただけでございます。青い封筒は、王宮茶会進行係からの正式な連絡だと……受け取った方々も、そう思っていらして……」
「皆様?」
レイベルナが聞き返す。
マレーネの目が泳いだ。
「封筒を受け取った方々です。正式なお席を変えるわけではないと聞いておりました。王妃陛下がお決めになった席は、そのままでございます。ただ、当日の進行に合わせて、椅子の向きや卓の角度を少し整えれば、呼び鈴が見えやすくなる席があると……その案内を、青い封筒で回すようにと……」
リディア侍女長の目が冷えた。
「つまり、王妃陛下がお決めになった席に、勝手に値段をつけたのですね」
マレーネの口が止まった。
地面にいたオルベルト・カインが、細い定規を握ったまま顔を上げる。
「……私は、そんな商売のために椅子の角度を測っていたのですか⋯⋯」
「今ごろ気づかれたのですね」
レイベルナは、庭に並ぶ白い円卓を見た。
「席次は変えていない。だから問題ない。そう言いたかったのでしょう。けれど、見え方に値段をつけて案内したなら、それはもう王妃陛下のお茶会を売り物にしたのと同じですわ」
その言葉で、東庭の空気が変わった。
王妃陛下のお茶会。
紫薔薇サロンの伝言箱。
青い封筒や協力金。
呼び鈴がよく見える場所。
それらが、ようやく一本につながった。
レイベルナは石畳に落ちた小さな紙束へ視線を戻す。
「その紙束を見れば、何を扱ったのか分かりそうですわね」
マレーネの顔から、さらに血の気が引いた。