作品タイトル不明
第32話 封筒の行方
「場所より先に、相手をお間違えですわ」
レイベルナが言うと、若い貴婦人は侯爵の腕へ寄せかけていた手を、そっと引っ込めた。
もちろん遅かった。
フィーランド侯爵夫人の顔からは、完全に笑みが消えていた。
「まあ……」
「これはまた、昼のお茶会に向かない登場ですわ」
「薔薇の受け取り先、奥様の目の前ですのね」
庭のあちこちで、扇の陰から低いささやきがこぼれる。
誰も大声では言わない。
だが、誰にも聞こえないほど小さくもなかった。
「お名前をうかがっても?」
「エヴァリナ・ミルゼでございます」
エヴァリナは、薄いショールを肩へ戻そうとした。
片側だけ落ちていたため、直したところでいまさら上品には戻らない。
反対の手には、すでに見覚えのある青い封筒があった。
偽の王宮茶会進行係を名乗る連絡に使われていた、あの青い封筒だった。
「侯爵様とは、どういうご関係で?」
「それは……その……社交上の親しいお知り合いでして⋯⋯」
「親しいお知り合いなら、奥様のいない間に薔薇を受け取るものなのですわね」
レイベルナが淡々と言うと、庭のあちこちで扇が揺れた。
「まあ……!」
「社交上、ですって」
「薔薇を受け取る社交もあるのですね」
「⋯⋯勉強になりますわ」
フィーランド侯爵が小さくなる。
「……エヴァリナ嬢」
レイベルナは、彼女の手元へ視線を向けた。
「その青い封筒は?」
「わ、わたくしが作ったものではございません。預かっただけですわ」
「どこで預かったのですか?」
「紫薔薇サロンの伝言箱です。会員の方なら誰でも使えると聞いていて……」
その瞬間、フィーランド侯爵夫人の目が動いた。
「紫薔薇サロンの……伝言箱?」
声は低かった。
エヴァリナは、そこでようやく自分がもっと悪い場所を踏んだことに気づいたらしい。
「わ、わたくしは、たまに顔を出していただけでございます。奥様に直接お目通りしたことはほとんどありませんし、伝言箱も……皆様が自由に使っているものだと聞いておりました」
「自由に、ですって?」
フィーランド侯爵夫人の扇が、今度は開かれなかった。
「私のサロンは、王妃陛下のお茶会を売り物にするための受け渡し場ではありませんわ」
「売り物だなんて⋯⋯! そうとは存じませんでした。青い封筒も、王宮茶会進行係という名前がありましたから、本当に王宮のお手伝いなのだと……私、てっきり……」
リディア侍女長が、短く告げる。
「王宮にそのような係はありません」
エヴァリナは青ざめた。
レイベルナは、侯爵が持っていた青い封筒とエヴァリナの手元の封筒を見比べる。
「あなたは、その封筒の中身を知っておりましたか?」
「いいえ、宛名の方にお渡しすればよいと。馬車のことも、封筒に挟まっていた紙に書いてあるから大丈夫だと聞いておりました」
「誰から聞いたのですか」
「それも、封筒に挟まっていた小さな紙に……。渡す相手と、次の運び先だけが書かれていて……」
「その紙は、まだお持ちですか?」
エヴァリナは、ショールの内側から折りたたんだ紙を取り出した。
そこには、短くこう書かれている。
――この封筒は侯爵へ。受け取りは侯爵家の馬車。裏門を使う。
庭がまた静かになる。
フィーランド侯爵夫人が侯爵を見た。
侯爵は薔薇を握ったまま項垂れた。
「まあ……!」
「侯爵様、まだ薔薇を持っていらっしゃったのね」
「たぶん、置きどころを失ったのですわ」
レイベルナはその指示の紙を見たまま、すぐには鈴に触れなかった。
「レイベルナ嬢。これは、誰かが勝手に伝言箱へ入れたのでしょう。私どもが作ったものではございません」
フィーランド侯爵夫人が低く言った。
「でしたら、書いた者を呼べばよろしいのではなくて?」
「署名も印もない紙です。呼び鈴は筆跡を追うものではありませんわ」
レイベルナは、青い封筒と指示の紙を見比べた。
「ですが、この紙は勝手に侯爵様の手元へ届いたわけではありません。伝言箱に入った紙を取り出し、仕分け、誰かの手に渡るようにした者がいます。呼ぶべきは、書いた者ではなく、その紙を動かした者です」
レイベルナは銀の鈴へ視線を落とした。
「だから、まずは伝言箱からですわ」
王妃陛下は、紫薔薇サロンの名が出たときから黙っていた。
だが、その沈黙は怒っていないからではなかった。
「⋯⋯フィーランド侯爵夫人」
「は、はい、王妃陛下」
「あなたのサロンの伝言箱です。実際に管理している者がいるのでしょう?」
「はい。幹事役の者に任せております。名は――」
「結構です。まずは名ではなく、この封筒と指示の紙が通った経路を確認しましょう」
王妃陛下がレイベルナへ視線を向ける。
続きを任せる目だった。
「承知しました」
レイベルナは頷き、銀の鈴を持ち上げた。
「青い封筒を伝言箱から取り出し、仕分けた責任者をお呼びしますわ」
――チリン。
銀の音が、東庭に落ちた。
次の瞬間、茶会の中央に中年女性が現れた。
現れた――というより、寝ていた。
体には昼寝用らしい薄い膝掛け。
片手には鍵束。
もう片方の手には、食べかけの小さな焼き菓子。
口は大きく開き、この厳かな東庭に似合わない大きないびきまで聞こえていた。
「まあ……」
「貴婦人のお昼寝とは思えない音ですわね」
フィーランド侯爵夫人の顔色が変わった。
王妃陛下が、静かに口を開いた。
「そこのあなた」
「――うるさいわね、まだ朝じゃないでしょう!」
女は目を閉じたまま、はっきりと怒鳴った。
東庭の空気が凍った。