軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第31話 薔薇と手紙

「近くに来すぎましたわね」

レイベルナが言うと、フィーランド侯爵は手にした葡萄酒の杯と薔薇をそっと体の陰へ隠そうとした。

もちろん、隠れるはずがなかった。

王妃陛下の茶会の中央で、昼の社交にしては決めすぎた礼装の侯爵は、すでに隠すことができない赤い葡萄酒と一輪の薔薇を持っている。

しかも、その目の前には王妃陛下と、妻であるフィーランド侯爵夫人がいる。

東庭の空気はしっかりと固まっていた。

「……フィーランド侯爵。久しぶりね」

王妃陛下の声は静かだった。

「その杯と薔薇については、あとで夫人としっかり話しなさい。今は、私の茶会の名で集められた協力金について伺います」

「は、はい。もちろんでございます」

フィーランド侯爵は姿勢を正そうとした。

だが、襟元が少し緩んでいるせいで、威厳よりも焦りの方が目立っていた。

夫人の表情は消えていた。にもかかわらず、笑っているように見える。

その笑みのように張り付いた表情は、薄い硝子のように冷たく感じられた。

「……私との話は、あとでたっぷりいたしましょう」

「……ひ、はい」

侯爵の声が細くなった。

レイベルナは、ヴェルテ夫人が抱えている黒い小箱を見た。

「この箱の協力金を、あなたが受け取ることになっていたのですか」

「い、いえ、私は、その……直接受け取るつもりではなく」

「では、どなたが?」

「うちの馬車に積ませるよう、頼まれておりました。東庭の裏門に、侯爵家の馬車を回しておけばよいと」

「誰に頼まれたのですか」

「手紙でございます」

侯爵は懐へ手を入れた。

その瞬間、白い紙が一枚、ひらりと花弁のようにレイベルナの足元に落ちた。

淡い薔薇の香りがした。

フィーランド侯爵夫人の目が、すっと細くなる。

「……あなた。その紙は?」

「こ、これは違う。こ、こ、この件とは関係が――」

「香水の匂いが、こちらまで届きましたわ」

「い、いや、それは、本当に関係な――」

侯爵が慌てて拾おうとしたが、レイベルナの後ろに立っていたセドリックが一歩だけ前へ出た。

剣は抜かない。

ただ、侯爵の手が紙に届く前に、ぴたりと足が止まる距離だった。

「証拠品に触れないでください」

「は……はい」

侯爵は手を引っ込めた。

レイベルナは足元の折り畳まれた紙を拾い、文面へ目を落とす。

「読み上げますか?」

「読み上げてください」

答えたのは、王妃陛下ではなくフィーランド侯爵夫人だった。

侯爵は完全に逃げ場を失っていた。

レイベルナは一度だけ侯爵を見てから、紙に視線を戻す。

『――侯爵様。奥様がお茶会に出ていらっしゃる間に、いつもの席でお待ちしております。先日いただいた薔薇、とても素敵でしたわ。今日も一本だけ、私に分かる合図としてお持ちくださいませ。例の封筒は、いつものように』

庭のあちこちで、扇が止まった。

「まあ……!」

「いつもの席、ですって」

「薔薇を合図にするのですか」

「例の封筒、とは何のことでしょう?」

「奥様、笑っていらっしゃるのに扇が危ないですわ」

フィーランド侯爵夫人は笑っていた。

だが、閉じた扇が、ぎしりと軋んだ。

「あなた」

「……はい」

「薔薇と葡萄酒だけではなく、青い封筒まで。ずいぶん荷物の多い祝杯ですこと」

「ち、違う。あれは、ただ預かっただけで」

「どなたから?」

侯爵は言葉に詰まった。

レイベルナは、薔薇の香りが残る紙をもう一度見た。

「侯爵。この手紙にある『例の封筒』は、あなたが預かっている青い封筒のことですか」

「……はい。王宮茶会進行係からでございます」

侯爵は、観念したように懐の内側から、隠していた青い封筒を取り出した。

封筒の角は少し折れている。

そこには、やはり王宮茶会進行係という文字があった。

リディア侍女長の顔が、また冷える。

「王宮には、そのような係はございません」

「はい、これが偽物だとようやく理解しました」

侯爵の返答は早かった。

レイベルナは青い封筒へ視線を落とす。

青い封筒は、偽の王宮茶会進行係を名乗る連絡に使われていた共通の封筒らしい。

座席、協力金、馬車、受け渡し先。

中身だけが、相手ごとに違っていた。

「どうするように言われていたのですか?」

「封筒の中に、短い添え紙がございました。茶会後、侯爵家の馬車で黒い小箱を預かるように、と」

「預かった後は?」

「西通りのサロン用倉庫へ運ぶ手はずでした。中身がお金だとは……いえ、薄々は分かっておりましたが⋯⋯」

「分かっていたのですね」

「薄々です」

「薄くても分かっていたのですね」

「……はい」

侯爵は小さくなった。

フィーランド侯爵夫人が、ゆっくりと彼へ歩み寄る。

「あなた。私が王妃陛下のお茶会に出ている間に、薔薇を持って女の方と葡萄酒を飲み、さらに侯爵家の馬車で運ぶおつもりだったのですね」

「並べると大変悪く聞こえるが、おおむねそうだ……」

「……並べなくてもいろいろと悪いですわ」

レイベルナが静かに添えた。

侯爵は黙った。

貴婦人たちは扇の陰から、もう隠しきれないほど小さく囁き合っている。

「いつもの席、ふふふ」

「薔薇も封筒も、いつものように、ふふふ」

「侯爵様、いつまであの葡萄酒と薔薇をお持ちになっているのでしょう」

「たぶん手放せないのですわ」

フィーランド侯爵夫人にはもう笑顔がなかった。

「あなた。あとで、いつもの席とやらについても伺います」

「……はい」

王妃陛下は、青い封筒へ目を向ける。

「その手紙を書いた者は、侯爵家の名を使えば疑われにくいと知っていたのですね」

「少なくとも、そう見ていたのでしょう。侯爵家の馬車なら、裏門を通っても疑われにくいと」

レイベルナは、薔薇の香りが残る手紙と青い封筒を見比べた。

協力金を集めた者。

侯爵家の馬車を使わせようとした者。

そして、侯爵をその気にさせた者。

フィーランド侯爵夫人に笑顔はない。

だが、おそらく次に呼ばれるのは、裏門へ小箱を受け取りに来る使い走りあたりだと思っているのだろう。自分が追及されるわけではないと、まだ何とか余裕があるようにも見えた。

自分の周囲が勝手に動いているだけであれば、知らなかったと言える。

だが、侯爵が持っていた青い封筒は、ただの使い走りで終わるものではない。

侯爵家の馬車を使わせ、お金を別の場所へ動かすための責任がそこに結ばれている。

これは、ただの密会の誘いではない。

王妃陛下がレイベルナを見た。

命じるというより、背を押すような目だった。

「レイベルナ嬢。私の茶会を、もう少しだけ取り戻してくださる?」

「はい。仰せのままに」

レイベルナは銀の鈴を持ち上げる。

「侯爵家の馬車で協力金を運ばせようとした責任者を、お呼びしますわ」

――チリン。

銀の音が、東庭に落ちた。

次の瞬間、侯爵の横に、若く麗しい貴婦人が現れた。

片側だけ肩から落ちかけた薄いショール。

片手には、少しだけ口紅のついた小さな鏡。

「ああ、侯爵様。急にどちらへ行かれていたのですか。いつもの薔薇をいただく前に突然いなくなってしまわれるなんて――」

甘えるような声でそう言いながら、若い貴婦人は目の前にいたフィーランド侯爵へ体を寄せる。

東庭の空気が、再び凍った。

侯爵の顔から、さらに血の気が引いた。

ようやく彼女の視線が、侯爵の後ろへ動く。

王妃陛下。

フィーランド侯爵夫人。

レイベルナ。

そして、扇の陰から一斉にこちらを見ている貴婦人たち。

若い貴婦人は、ゆっくりと手を引っ込めた。

「……お花の受け取り場所を、間違えましたかしら⋯⋯」

「場所より先に、相手をお間違えですわ」