作品タイトル不明
第30話 危険な一杯
「もう王妃陛下の前にしっかりと出ておりますわ」
「し、失礼しましたの!」
焦った丸顔の貴婦人は裸足をそっと椅子の陰へ隠そうとした。
もちろん、隠れない。
王妃陛下の茶会の中央で、片足だけ靴を履いた貴婦人が、金貨の入った小箱と座席カードを抱えている。
先ほどまで扇の陰で笑っていた周囲の貴婦人たちも、今度ばかりは笑うに笑えない顔で困惑していた。
「お名前をうかがっても?」
「は、はい、私、ヴェルテ・ローネでございます。王都の茶会で、席のご案内を少し……ほんの少し、手伝っておりますの」
「その座席カードと協力金も、ほんの少しですか」
「……これは⋯⋯それなりにしっかりでございます」
ヴェルテ夫人は小箱を抱え直した。
「で、でも、誤解ですわ。わたくしは王妃陛下のお茶会を汚すつもりなどございませんでした。王宮茶会進行係の方から、皆様に失礼がないよう席を整える手伝いを、と頼まれたのです」
リディア侍女長の顔が、また一段冷えた。
「王宮にそのような係はありません」
「それはもっと早く聞きたかったですの」
「座席カードについて、こちらも同意見です」
その短いやり取りだけで、ヴェルテ夫人の背筋がさらに伸びた。
「その協力金はどうする予定ですか?」
「席を整えるための預かり金だと聞いております。茶会が終わったら、まとめて渡すようにと」
「どこへですか?」
「⋯⋯日が傾く前に、東庭の裏門へ。この小箱のまま持っていけば、受け取りの方が来ると」
庭の空気が、ぴたりと止まった。
フィーランド侯爵夫人は、それを聞きながら微笑んでいる。
「まあ。ずいぶん手の込んだことをなさる方がいるのですね」
その声には、まだ余裕があった。
裏門へ小箱を受け取りに来る者など、せいぜい使い走りか、名もない係の下働き。
そう言いたげな微笑みだった。
レイベルナはヴェルテ夫人の小箱を見る。
王妃陛下の茶会で集められた金。
存在しない係の名。
そして、茶会のあとに裏門へ運ばれるはずだった小箱。
レイベルナが一度だけ王妃陛下へ視線を向けると、王妃陛下は静かに頷いた。
「鳴らしなさい。私の茶会の名で集められた金です」
「承知いたしました」
レイベルナは銀の鈴を持ち上げた。
「この鑑賞席の協力金を受け取ることになっている方を、お呼びしますわ」
――チリン。
銀の音が、東庭に落ちた。
次の瞬間、茶会の中央に、よく仕立てられた服を着た男が現れた。
昼の社交にしては少し決めすぎた、濃紺の上着。
緩めた襟元。
片手には赤い葡萄酒の杯。
もう片方の手には、誰かへ差し出しかけていたらしい一輪の薔薇。
「今日は妻も王妃陛下のお茶会で忙しい。もう一杯くらい、咎める者もいな――」
男の声が、そこで止まった。
目の前に、王妃陛下がいる。
少し離れたところに、フィーランド侯爵夫人がいる。
周囲には、貴婦人と令嬢たちがいる。
セドリックが一歩だけ前へ出かけ、相手の手元を見て止まった。
杯と薔薇だけなら、剣を抜く場面ではない。
ただし空気は、十分に危なかった。
庭のあちこちから、小さな悲鳴が上がった。
「まあ……」
「フィーランド侯爵様……?」
「奥様の扇が、閉じましたわ」
「昼ですわよね?」
「咎める者、目の前におりますわ」
フィーランド侯爵夫人の扇が、ぱちん、と閉じた。
「あなた」
その一言で、東庭の温度が下がった。
フィーランド侯爵は、手にした杯を見た。
薔薇を見た。
王妃陛下を見た。
最後に、妻を見た。
「これは……王妃陛下のお茶会の余興ではないな……?」
「余興なら、奥様のお顔を先にご確認なさった方がよろしいですわ」
レイベルナが静かに答える。
侯爵夫人は笑っていた。
ただ、閉じた扇だけが折れそうなほど握られている。
「あなた。もう一杯くらい、何ですって?」
「わ、私は……王妃陛下のお茶会が無事であるよう、遠くから祝杯を……」
誰も笑わなかった。いや笑えなかった。
「近くに来すぎましたわね」