作品タイトル不明
第29話 這いつくばっている人
這いつくばったままの男――オルベルト・カインは、細い定規を握ったまま固まった。
「……やはり、正式な役職としては認められておりません、か」
「はい、当然です」
リディア侍女長が答えると、オルベルトはさらに青ざめた。
「王妃陛下、申し訳ございません。先ほどの角度があまりにも失礼でしたので、せめて深くお詫びを――」
「それ以上、低くならなくて結構ですわ」
すでに十分低かった。
周囲の貴婦人たちは、扇の陰で目を丸くしている。
先ほどまで《呼び鈴》を見世物扱いしていた茶会の空気は、すでに変わり果てていた。
「オルベルトさん」
レイベルナは、彼が顔を上げても大丈夫な位置に立った。
「茶会座席演出士という肩書きは、どなたがつけたものですか」
「……私でございます」
庭が一瞬、静かになった。
「……最初は、席の見え方を整える者、と名乗っておりました」
「そのままですわね」
「はい、ですが、それではあの、すごく地味でして。茶会座席演出士と名乗ったところ、貴族邸やサロンでの受けがよくなりまして」
「依頼を受けてしまったのですね」
「はい」
オルベルトは定規を握りしめた。
「王宮の正式な職ではないことは承知しておりました。ですが今回、王宮茶会進行係という名から、その肩書き宛に依頼が届いたのです。私は、ついに王宮にも認められたのだと……」
「認めておりません」
リディア侍女長が即答した。
「はい。今、深く理解いたしました」
オルベルトは床に額をつける。
「今回が、本物の王宮で初めての仕事だったのです。ですから、名を売るために無償で引き受けました」
「……無償……ですか」
レイベルナは、少しだけ間を置いた。
リディア侍女長が口を開いた。
「王宮にはない肩書きで、さらには無償で受けた仕事で、王妃陛下のお席の前に這いつくばっているのですね」
容赦なかった。
再び空気が凍った。
「張り切る方向を間違えていますわ」
円卓のあちこちで、扇が小さく震えた。
笑いかけた貴婦人たちが、王妃陛下の静かな視線に気づいて口元を扇で隠す。
「その依頼は、どのように届きましたか?」
「確か、青い封筒です。席図と要望書が入っておりました。特定の座席からの見え方を整えてほしいと。座席の予定位置について、詳細が書いておりました」
「……王妃陛下のお茶会を、舞台にしましたのね」
レイベルナの声は荒くない。
だが、オルベルトの肩がびくりと跳ねた。
「わ、私は席の角度と位置を見ただけでございます。無償なので、お金も受け取っておりません」
「席の角度と位置⋯⋯」
「はい。鈴がよく見えるように、呼ばれた方の顔が見えるように、どの席なら貴婦人方が上品に驚けるかなど……」
オルベルトは、握っていた配置図をおそるおそる差し出した。
レイベルナはそれを受け取り、目を落とす。
円卓の位置。
王妃陛下の席。
レイベルナの席。
そして、その周りに小さな文字で書き込みがある。
――特等鑑賞席。
――前列鑑賞席。
――驚き声がよく届く席。
――立ち上がり注意席。
レイベルナは、しばらく黙った。
「……驚き声がよく届く席?」
オルベルトが小さく答える。
「貴婦人方の『まぁ!』が、庭全体へほどよく広がる位置でございます」
「広げなくて結構ですわ」
「はい」
「立ち上がり注意席は?」
「驚いた方が立ち上がった時、椅子に裾を引っかけやすい位置でしたので、注意を」
「まず、そのような席を作らないでくださいませ」
「はい」
何人かの貴婦人が、自分の座席のカードをそっと裏返した。
裏返しても、そこに座っていた事実は消えない。
レイベルナは配置図の下の方を見た。
そこには、別の筆跡で書き込みがあった。
――特等鑑賞席、協力金受領済み。
――前列鑑賞席、未収三名。
――通常席、当日調整。
「オルベルトさん。この特等鑑賞席や前列鑑賞席を、案内したのはあなたですか」
「いいえ。私は席の角度と位置を決めただけでございます。案内と協力金は、別の方が」
「どなたですか?」
「座席カードを取りまとめておられたヴェルテ夫人です」
フィーランド侯爵夫人の扇が、ぴたりと止まった。
「まあ。ヴェルテ夫人まで関わっているのですか。社交好きの方ですから、また面白がって……」
「夫人」
レイベルナは静かに遮った。
「まだ、面白い話にはなっておりませんわ」
フィーランド侯爵夫人の笑みが、薄くなる。
王妃陛下が、レイベルナへ目を向けた。
「レイベルナ嬢、続けなさい」
「承知いたしました」
レイベルナは銀の鈴を持ち上げる。
「この鑑賞席の協力金を受け取り、座席カードを配った責任者を、お呼びしますわ」
――チリン。
銀の音が、東庭に落ちた。
次の瞬間、茶会の中央に、丸顔の貴婦人が現れた。
片方の靴を脱ぎ、だらしなく伸ばしている。
膝の上には、食べかけの砂糖菓子が3つ。
脇には金貨の入った小箱。
そして、反対の手には座席カードを何枚か持っていた。
「案内は終わりましたが……すぐには行けませんわね、この靴がきつすぎて足が、足が――」
そこで、彼女は止まった。
王妃陛下を見た。
レイベルナを見た。
片足だけ裸足になっていた。
金貨の小箱と座席カードを見た。
そして、そっとその素足を下ろした。
「……この姿は、社交界には出ませんわよね」
「もう王妃陛下の前にしっかりと出ておりますわ」