作品タイトル不明
皇帝夫妻の一日目・3
レイチェルは店の片隅、ほどよく空席と植木鉢で姿が隠れる場所に押しこまれた。
「いかにも昼休みですって格好のまま何してんのよ」
肩から提げていた小さな鞄から、セレナが口紅を取り出す。ぽかんとしている間に顎をつかまれて口紅を塗られてしまった。
「だからデートかって聞かれても答えられないんでしょ」
「そ、それは……今日は厨房の仕事だったので、化粧厳禁で」
「言い訳しない。うしろ向いて」
ぐるりと体の向きを変えられたと思ったら、髪をいじられる。文句を言う隙もなく、リボンでひとくくりにして肩から流す髪型に変えられてしまった。
「これなら見られるでしょ。ちゃんとしなさいよね。手抜きするとなめられるわよ」
そう言うセレナは、まっすぐな髪を綺麗なバレッタで留めていた。白のワンピースに、レースのついたケープ。清楚でいて、愛らしい。だが化粧は甘くなく、媚びを売っているようには見えない。男性にはわからない、恐ろしい女子力の高さを詰めこんだ装いだ。
「……そういうの、オーギュストさんは気にされます?」
「気にもとめないわよ、あんな馬鹿。これはそういう問題じゃないでしょ。それともあんた、周りからあの男の女中だと思われていいわけ?」
よくない。
素直にレイチェルは反省した。お仕着せを着替えることは無理でも、せめて何か工夫はすべきだった。仕事は言い訳にならない。
セレナだって今、女性官吏登用試験のために受験勉強をしている最中なのだ。
「ありがとうございます」
「口紅つけるだけでも化粧してるようには見えるんだから。オベロン商会から落ちにくくて持ち運びにも便利なやつ、出てるわよ」
色もわりと豊富、とつけたすセレナに苦笑いする。
「お買い上げ有り難うございます。……あの、お礼代わりというわけじゃないんですけど……今日はオーギュストさんの話、ちゃんと聞いてあげてくださいね」
「何、その言い方」
「私から言うわけにいかないので。それにオーギュストさんも、いつ言い出すか迷ってるだけだと思うんです。ただ、私は早く聞いたほうがいいと思います。だから知らないふりをして、うまく聞き出してください。私のお節介ですから、無視してもいいですけど……」
「……せっかくの助言でしょ。ありがたくいただくわよ。なんか最近、妙に静かだなって思ってたし」
心配をにじませた口調に、レイチェルはにっこり笑う。
「だったら大丈夫です。喧嘩しないで頑張ってください」
「あんたもね。心配しないで、こっちが店、変えるから」
先にセレナが歩き出し、オーギュストに声をかける。何やら暗い顔でアイザックと話していたオーギュストは慌てて笑顔を繕って、セレナと一緒に店を出て行った。
「すみません、話の途中で」
戻ってきたレイチェルに少しアイザックは目を瞠った。
レイチェルはひとつにまとめた髪先を指でつまみながら、笑う。
「セレナさんがやってくれたんです。……デートなんだからちゃんとしろって、怒られちゃいました」
「……あ、そ」
否定は返ってこなかった。胸の中でもう一度、セレナに礼を言う。
話題は自然と、見えなくなったセレナ達のことになった。
「ちゃんとオーギュストさんと話ができるといいんですけど」
「……でも片方、試験勉強中だろ。終わるまで待ってもいいんじゃねえの」
「でもそれだと一ヶ月も心の準備をする時間がないじゃないですか。そういう気遣いってとても怒りにくいし、今言っちゃったほうがいいと思うんです」
「……そういうもん?」
「悪いことほど早く報告したほうがいいです。どうしようもないなら、なおさら……あ、オーギュストさんのは悪いことじゃないんですけど」
「……実は、さ。結婚のことなんだけど」
切り出し方に、いささか緊張した。セレナのおかげで消えたと思った先ほどの不安まで、しみのように広がる。
アイザックが頬杖をついて、つぶやくように続けた。
「俺の家族が反対してるって話は、したよな」
「は、はい。あの、でもそれならうちの家族も……ですし……」
レイチェルは跡取りのいる伯爵家の長女。アイザックは伯爵家の三男。ふたりとも爵位の継承権はないが皇后陛下の寵臣だ。
だから互いの家族が互いに、もっといい相手がいるだろうと口をはさんできている。要するにレイチェルには爵位を持っている長男と、アイザックには跡継ぎのいない貴族の娘との結婚をすすめているのだ。
だが、互いの家から反対されることは、婚姻の契約書に署名したあとでアイザックが今後の予想として教えてくれていた。同時に説得できるよう手を打つからと言われていた。
だから、レイチェルは両親に反対されても、アイザックが一言も告白や求婚めいたことを告げてくれなくても、安心していたのだ。
「昨日、お前の弟から手紙がきた」
なのに今更やめるなんて言い出さないでくれ、というレイチェルの不安とはまったく違う方向に話が飛んだ。
「え……私の弟、から、ですか?」
「俺宛てだから中身は見せないけど、これ」
アイザックが封書の表面にある宛先人と、裏面の差出人だけを見せてくれる。
確かにアイザック宛で、差出人はレイチェルの弟だった。
弟はアイザックの予想に反して、明確に姉の結婚に賛成してくれた。家の借金をなくし望まぬ婚約から姉を救い出したアイザックは恩人だと言い、爵位があろうがなかろうが幸せになれると幼いながらも両親を説得しようとしてさえくれた。
その弟が出す手紙ならアイザックが怒ることはなさそうだが、アイザックの表情は固い。
「お前の元婚約者が復縁を申し込んできてるんだと。で、お前の両親は乗り気だそうだ」
元婚約者。
その単語自体、遠い昔すぎて、何を言われているのか一瞬、理解できなかった。