作品タイトル不明
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日記を手に取る前に、アイリーンの頬をなでていた聖竜妃の髭からぴりっと魔力が走った。
「……魔力をわけてくださった? どうしてわたくしに……聖竜妃!」
ばさあと翼を大きく羽ばたかせて、聖竜妃が浮かびあがった。
「バアル様が心配だから帰る、だそうだ」
せっかくきたのに、と言いかけてやめた。
聖竜妃がここに長く止まるのはまずい。聖竜妃がアシュメイル王国を見限り水の加護を与えないと誤解されたら、またややこしいことになる。
「あとは――内緒にしてくれ、と」
ゼームスの翻訳に上空に浮かびあがる聖竜妃を見あげる。
聖竜妃は優雅に旋回したあと、あっという間に小さくなって空の彼方へ消えてしまった。
(内緒って……今の、魔力のこと?)
アイリーンは残されたものをウォルトから受け取る。予想どおり、ひとつはアシュメイル王国でバアルと見つけたアメリア・ダルクの日記と思われるものだった。
「これは……辞書ね。ロクサネ様の私物みたいだけれど……」
「なんの辞書? 見たことない文字なんだけど」
「――ハウゼル女王国の古語だわ」
五百年ほど前に統一言語になってから、使われなくなった文字だ。
その手の話が好きなゼームスが、少し目を輝かせてのぞきこむ。
「ハウゼル女王国の古語の辞書だと? ハウゼル女王国は統一言語を作った際、それまでの文字は呪文と似た力があるとかなんとか言って、他国にあるものはほとんど焼き払ってしまったんだろう。よく残っていたな……門外不出の品じゃないのか」
「ロクサネ様はそんじょそこらの歴史学者に負けない才媛だとうかがっていたけど……この辞書はハウゼル女王国の古語をアシュメイル王国の古語で訳してあるのね。読めるかしら。いえその前に、この日記は鍵が――」
辞書をゼームスにわたし、日記を手にする。鍵はあいていた。
(――願いが叶うまで、開かないはずなのに)
つまり、願いが叶ったのか。
ぎゅっと唇を引き結び、まず表紙をめくる。ぴりっと手に、先ほど聖竜妃からわけられたのと同じ魔力が走った。
同時にぐんと吸い込まれるような力が働く。
「!?」
「アイリちゃん!?」
ウォルトが叫ぶ声も、振り向いたゼームスの顔も、すべて渦のようにゆがみ、日記にのみこまれていく。
(まさかさっき、何か魔法を聖竜妃がかけたとか!?)
そう思った時は、景色が変わっていた。
見えるのは空だ。雲ひとつない、真っ青な青――その中にアイリーンはいるわけで、つまり落ちる。
「……っ!?」
いつぞや夜空から落とされた時と同じ感覚に、声にならない悲鳴をあげた。今のアイリーンには聖剣もない、クロードの魔力の加護もない、地面にたたきつけられたらその場で終わる。
(せ、聖竜妃の魔力が何か使えたり――しないわよねやっぱり!?)
だめだ死ぬ。
妙に冷静にそう判断したとき、誰かが自分の体をさらうようにして受け止めた。そのまま地面に着地する音が聞こえて、アイリーンは止めていた息を吐き出す。
「君、大丈夫か」
少し低い、女性の声だ。逆光で顔が見えない。だが、さらりと頬に落ちた美しい黒髪にアイリーンは、その名前を呼んでしまう。
「――クロードさ……」
ばさあっと翼が羽ばたく音と強風がそれを遮った。
アイリーンの髪が大きくなびく。
思わず空を見あげたアイリーンの目には、高く伸びた木々がまず映る。その木の隙間から垣間見えたものは――竜だ。妙にくすんだ色をした竜の、あれは子どもだろうか。
目を見開いたアイリーンをそっと木の根元におろし、女性が立ちあがった。
「しまった、逃げられたな。まったく、手のかかる」
「あ、あの……」
「ああ、すまない。――君、さっき突然、空から現れたな。ひょっとしてここがどこかわからなかったりするのか?」
女性相手とはいえ、誰かわからない者にうかつに自分のことを漏らすのは危険だ。
そうわかっていたが、素直にアイリーンは頷いてしまった。それで気づく。
この女性とクロードの話し方が、似ている。
「やっぱりそうか。――すまない、まきこんでしまったようだ」
「まきこむ、というのは……」
「……見たところ、普通の人間だな。その、気絶せずに話を聞いてもらえるだろうか」
もう一度、頷いた。
そうすると立っていた女性が、腰を落としてアイリーンと目線を合わせてくれた。
綺麗な菫色の瞳にまず息を呑んだ。まっすぐな黒髪。
同じ顔だとすぐ気づかなかったのは、同じ造りなのに、生気が違ったからだ。
「ここは魔界だ」
「ま、魔界ですか」
「そうだ。ちょっとした手違いで、君はこっちの事情に巻きこまれたのだと思う。きちんと私が責任を持って送り届けるから、安心して欲しい」
「は、はあ……あの、その。お名前を、うかがっても?」
一応、聞いた。ああと笑ったその女性は、柔らかく答える。
「グレイス・ダルクという。聞いたことがあるかもしれないが」
「え、ええ、そうです……わね……?」
「聖剣の乙女で間違いないから、安心してくれ」
なるほど、まったく安心できない。頷き返しながら、アイリーンはそう思っていた。