作品タイトル不明
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クロードの巨躯が、バアルの結界にからめとられるようにして凍っていく。
魔王を封じる、聖なる氷の柱だ。びきびきと音を立てて黒い鱗が凍り付いていく。何もかも、浄化するように。
そして最後に、砕け散った。
「クロード……さま……」
季節外れの霜が、花びらのように舞う。暗雲から差しこむ太陽の光を反射し、きらきらと水のように輝いて、光る。
(嘘、そんな……嘘よ)
呆然としているアイリーンの前で、白い靄が晴れていった。
はっと目を見開く。
古城の前にそびえ立つ氷の柱に、両足と両腕を囚われたクロードがいた。
ほんの少し前までの、人間の姿のままで。
「クロード様!!」
もつれそうになる足を無理矢理動かして駆け出した。すべる氷の上をヒールで削り、走る。
霜をおろした睫が震え、ゆっくりと開く――綺麗な、赤の瞳だ。
それがアイリーンの姿を映して、柔らかくとろける。
「……アイリーン、か?」
クロードだ。一瞬足を止めて、そのままその胸元にすがりついた。
「クロード様、よかった……! わ、わたくしが、わかりますか」
「……ああ。僕の、妻だ」
その回答に喉をつまらせてから、ふと気づく。
足下の氷の下で何かがうごめいた。脈打つように黒い何か、まがまがしいものが氷の中を這いずり回っている。
アイリーンと同じものに気づいたクロードが、つぶやく。
「……そうか。僕は、本体に……ああ。聖王も、粋なことをする」
そう言うクロードの足に、氷の中でうごめく何かがからまった。
本体だ。
聖王の結界に押し負けて氷の中に閉じこめられた本体が、またクロードをのっとろうとうごめいている。
「別に狙ってやったわけではない。お前が人間だから耳飾りが共鳴して、一時的に分離できただけだろう。……長くはもたぬ」
脇腹を押さえたバアルが、無情にそう言い切った。
息を呑んだアイリーンのすぐ近くで、クロードが苦笑した。
「そうか。……そうだろうな。このままでは、同じことの繰り返しだ」
「そうだろうなって……クロード様!」
「アイリーン。離れるんだ」
「嫌です!」
即答したアイリーンの目の前で、氷に埋まったクロードの手首に黒いものがからまる。
それでもその胸をつかみなおして、もう一度叫んだ。
「嫌です、離れません! わたくしが助けますから、だから」
「僕は大丈夫だ、アイリーン。心配しなくていい。君のところにちゃんと戻る」
「そ、そんなことを言って、わたくしをだませると思うのですか。どうやってですか、魔物になって魔界に封印されて、どうやって戻ってくると」
「今、考えている。わりとなんとかなると思うんだが」
「こんなときまでそんな、いい加減なことを」
「わかってくれアイリーン。――このままいいように使われたくないんだ」
はっと顔をあげたアイリーンの頬に、さらりとクロードの長い髪が落ちてきた。
「この体も何もかも、全部、僕のものだ。それをいいように蹂躙されるのは、僕の矜持が許さない」
「……クロード、様」
「大丈夫。僕の妻は、君だけだ」
氷を突き破った本体がクロードの首にまきついた。クロードが乾いた笑みを浮かべる。
「なんだ、怒ったのか。愛すべき妻もわからない負け犬が、笑わせる。世界を滅ぼすこともできずに、いつか結ばれたいなどと、妻にすがりきってみっともなく生きながらえているだけのくせに」
ふとクロードが目線をあげた。
その視線の先では、泣き出しそうな顔をしたルシェルが宙に浮いている。
「――クロード。僕と一緒に、魔界に帰ろう」
噛みしめるように、ルシェルが繰り返した。
「今はだめでも、ひょっとしたらいつか、お前を人間のままこっちに戻せる方法が見つかるかもしれない。だから――」
「断る。僕はいつかなんてものに賭けない」
ルシェルが息を呑んで、うつむいた。
ゆっくりとクロードが視線をアイリーンに戻す。
「だから、忘れないでいてくれ。疑わないでくれ。必ず君のところへ帰るから」
「……クロード様?」
「愛している。僕の可愛いアイリーン」
その視界に入ったものを、クロードは転移させることができる。
聖剣も持たないアイリーンでも、不意をつけば聖剣の乙女でさえ、まばたきの一瞬で、古城からはるか離れた安全な場所に、置き去りにできるのだ。
■
もう一度目を開くと残っていたのは、聖王と血染めの花嫁衣装を着た女だった。
あとは――自分をのみこもうとうごめく、本体。
足下のそれを見て、バアルがつぶやく。
「もう、よいか」
「いいわけがないだろう」
バアルが眉を動かした。その右手に聖なる力を奔らせながら、冷徹に言い切る。
「余は、余の国と世界と愛する妻のために、魔王を野放しにはできぬ」
「わかっている。だが、愛する妻をたばかることは許してくれるだろう?」
菫色の瞳がまたたく。
ふうとクロードは息を吐き出して、最後に見た妻の顔を思い浮かべた。
(泣いていたな)
どうしようもなく胸がときめくと同時に、気づいてしまった。
彼女を泣かせるのは好きだ。好きだけれど、その涙を拭うのは自分でなければ困る。
ばりんと氷にびびが入り、這い出た本体が体にからみついた。
その姿を見て、女がなれなれしくそばによってくる。
「聖王に封印など私がさせませんよ。あなたはそのまま、正しい運命を歩むのです」
「運命か。ずいぶん間抜けな運命だ」
嘲るクロードを制止するように、本体が体を締めつけてくる。
そのけなげで憐れな魔王に、侮蔑と自嘲をこめてクロードは教えてやった。
「あれはお前の妻じゃないぞ」
「何を言い出すかと思えば。私は」
「まあ、わからないでもないが。妻の遺体を傷つけたくないという気持ちは」
ぴくりと自分の頬に伸びた女の指が止まった。その指先は冷え切っている。
「だが、お前は僕の妻を傷つけた。だからこれはお互い様だ」
すさまじい勢いでクロードを取りこもうと本体が動き始めた。
ただただ、認めたくないのだろう。妻がもうどこにもいないなんて、耐えきれないのだ。
だから祈って願ってすべてを賭けて、呪いと化した誓約をこの女に利用されても、まだ現実を直視しようとしない。
憐れみはある。つらいだろう。首だけになって戻ってきた妻なんて、自分だって見たくもなければ認めたくもない。
(だが、僕はお前と同じにはならない)
いつだって、大事なのは今、この瞬間の選択だ。
空を見ようと視線を持ちあげると、視界いっぱいに女の顔が映った。
ルシェルの妻、つまり自分の母親ということになるのだろうか。まっすぐな黒髪は、母親譲りなのだろうか。そんなことを思う。
「大丈夫です。あなたもすぐ理解するでしょう。あなたの妻は私だと、誓約どおりに」
「触れるな、不愉快だ」
はっと女の瞳が見開かれる。その胸に光り輝くのは、聖剣か。
だがもう遅い。クロードの意図に気づいた本体も間に合わない。バアルが叫んだ。
「クロード! お前、何を」
「見届けてくれ、バアル」
名前を呼ぶ友人ができるなんて思わなかった。
愛する女性が、妻が持てるなんて思っていなかった。思いがけないことばかりだった。
だからこの先もきっと、思いがけないことが待っている。
内側から自分の魔力に引火する。
自分をのみこもうとつながっていた本体の絶叫が光の収束にのみこまれ、クロードの意識ごと爆散した。