軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

15

通路に、泥とゴミがまき散らされていた。その中に、自分のサンダルも沈んでいる。

裸足で歩いていたサーラはそれ以上先に進めずに、立ち止まる。水竜の食事である果物の入ったかごをぎゅうっと抱き締めて、別の道を行くべく振り返る――そのとき、どんと背中を押された。

「あらごめんなさい、サーラ様」

「……いえ」

「大変、怪我はありませんでした? でも大丈夫ですわね、サーラ様は神の娘ですもの。ご自分で治せるんですわよね」

「私達の助けなんてお邪魔になるだけでしょう。失礼致します」

くすくす、くすくす。嗤う宮女たちの顔など、いちいち覚えていられない。ひたすら汚れた通路の泥と一緒になって、身を潜めるだけだ。

笑い声が聞こえなくなってから、身を起こそうとしてやっと、膝がすりむけていることに気づいた。手の平もすれて、赤くなっている。

治す――ことはできる。だってサーラは神の娘だ。

肝心なときに役に立たなかったにもかかわらず、聖王と慈悲深き正妃に許され、夫の聖将軍が回復することを祈りながらつつましく暮らす、神の娘。

みんなをだました悪者。死にたくなくて逃げ出した、卑怯者。

「何をしているのです」

音もなくこちらにきた影に、びくりと身を震わせる。だがその相手を見て、力が抜けた。

「ロクサネさ……ロクサネ、様」

「立ちなさい」

凛とした声に命じられ、よろよろと立ちあがった。

するとロクサネはサーラの髪や服についたゴミを払い、泥で汚れたサンダルを拾いあげてくれる。美しい柘榴の衣装が汚れることなどいとわない。

「聖竜妃の食事はもう終わりましたよ」

「え……で、でも、これからだって」

「わざと違う時間を教えたのでしょう。よくあることです」

わたくしもよくやられました、とこともなげにロクサネは言った。

「怪我をしていますね。手当てをしましょう」

「……わ……私、自分で、治せます、から……」

「そういう怪我は自分で治してはいけません。こちらにきなさい」

「で、でも、道が、汚れて……」

「かまってはいけません。あとで洗えばいいことです」

そう言ってロクサネ自身が、汚れた通路を踏みつけて歩く。

このひとだけは、サーラがどうなろうとも本当に変わらない。

ぐっと唇を噛みしめたサーラは泥の中に裸足を突っこむ。ぬめりと気持ちの悪い感触が足の裏に広がったけれど、かまってはならないのだ、と言い聞かせた。

陽の宮殿に戻ると、汚れたロクサネの衣装に女官たちは真っ青になっていた。だがロクサネは平然として湯を準備させ、サーラの着替えを持ってくるようにいい、手ずからすりむけた膝に薬を塗ってくれた。

「先ほどのは、アレスの屋敷につとめている者達でしょう。夫人であるあなたがしっかり監督せねばなりませんよ」

薬を塗るロクサネの左手に、指輪が光っていた。

「……バアル様と、おそろいなんですね。指輪」

サーラの言葉にロクサネが顔をあげた。

相変わらず何を考えているかわからない顔だ。綺麗だけれど、冷たい。そう言われていた。でもきっと優しいひとだ。サーラに嫌がらせをするのは、サーラだって悪かったから。そう、いつもかばっていたのは自分だったのに。

「この間、宴で。……バアル様が、ロクサネ様の膝枕で寝てるの、見ました。仲良く、なったんですね……よかった。私のせいで、ロクサネ様、が……」

「――さん、で結構です。今までそうだったでしょう」

「だめです。……だめ、なんだって。みんな、違うこと言うんです……ねえロクサネさん。私、間違ってましたか。――死ななきゃ、だめだった?」

手の平を返して自分に嫌がらせをしてくる友人達、神の娘でないと突然冷たくなった目、魔竜なんてものと戦わせようとした国。

そんなものを、守るために。

「みんな、優しかったのに。だ、だから、私も、精一杯、頑張ろうって――でも、なんで私ひとりが死ねって言われて、でも逃げたからって、責められなきゃいけないの! 戦わずになんにもしてないひとなんてたくさんいたじゃない、どうして私だけ逃げちゃだめだったの!!」

肩で息をして、奥歯を噛みしめる。

泣きわめいたところで冷たくあしらわれるだけだ。ここ一ヶ月で散々学んできたのに、どうしてまだ、現実を飲みこめないのか。

「――わたくしはあなたに謝らねばなりません。アレス様のことです」

びくりとサーラは身を震わせた。夫の名だ。だが今のサーラには、何も受け入れられない。

「アレス様があなたに盲信し、必要以上に持ち上げていくのを止められなかった。今思えばバアル様もわたくしの手落ちです。わたくしがさっさとバアル様を籠絡させていれば、ここまでひどいことにはなりませんでした」

「ろ、籠絡……」

思いがけない単語に、こみあげていた激情が勢いをなくす。

「いいですか。あなたの間違いはアレス様に対して『この男は自分に夢見ている』と自覚しなかったことです」

困惑が勝って、どう返事をしていいかわからなかった。

「アイリーン様も言っておられました。恋に溺れる男は馬鹿だと」

「え……あの」

「わたくしも気をつけねばなりません。バアル様は素晴らしい方ですが、わたくしに夢を見ている気がしないでもないのです。わたくしはそんなに可愛い女ではないのに、可愛い可愛いと馬鹿のひとつ覚えのように」

のろけかと思ったが、ロクサネは真剣にため息を吐いている。

「そのくせ、夢が崩れた瞬間、男は女に責任転嫁するのです」

そうだろうな、と思った。アレスはきっと、サーラに失望しているだろう。

「ですから、あなたが逃げ出したことは間違いでもなんでもありません」

――死ななくていい、と言われた気がした。生きていてよかったのだと、初めて。

うう、と知らず奥歯から嗚咽がこぼれる。しゃくりあげて、息を吐き出して、吸って、ようやくのみこめる気がした。

どうして自分がこんな目にとか、そういう現実を――生きていて、いいのなら。

ロクサネは淡々とハンカチを差し出した。その態度は以前と何も変わらない。

このひとだけは、変わらない。

「ですが、あなたはそれまで無自覚であろうとも、人に期待をもたせすぎた。今はそのしっぺ返しをうけているのです。わかりますね」

だからその厳しい言葉にも、頷ける。

「これからはまず、あなたにできることをしなさい。とはいえ、あなたは神の娘です。市井に戻すことはできませんし、アレス様との離婚も今すぐ認めるわけには……いずれ後宮に戻すことならばできる可能性はありますが……」

「い、いいえ! それは、……いいです」

断ってから、少しだけ誇らしくなった。ロクサネがことりと首をかしげる。

「もうアレス様に愛想はつきたでしょう。バアル様は国に尽くそうとする限りは、大切にしてくださいますよ」

「後宮に戻してくださいと、お願いしたことはあります。でもバアル様が、もうそれはできないとおっしゃられました。私には務まらないって。それに……ロクサネ様に、悪いと」

サーラの処分を告げるためやってきたバアルは、もう元には戻れないのだとそう言った。

そのときはどうしてと責めたけれど、聖王の妻としての役割を求めなかったバアルの優しさが、今はわかる。

「……バアル様は、素敵な旦那様ですね」

ロクサネが何か言いかけて、やめて、複雑そうな表情で――小さくつげる。

「……アレス様も、少なくとも生まれたときは悪い方ではなかったでしょうね」

「そう、ですね。――私を好きだって、言ってくれました。私……少し前まで、うまく力が制御でなくて、ひとの怪我を治すどころか余計にひどくしたり、それで化け物呼ばわりされて、売られたり……でも、アレス様はこの力を優しい力だって言ってくれたんです」

「かっこつけようと適当に言っただけではないですか?」

辛辣な評価に、苦笑いが浮かんだ。

「そうかもしれません。でも、あのときの言葉は本当だったと思います。私は、使われるべきじゃない。守られるべきだと言ってくれました。……私を、守ろうとしてくれるひとなんて今まで誰もいなかったのに」

あのとき、あの目に宿っていた情熱は、本物だった。

なのに――どこで、掛け違ってしまったのだろう。

「アレスの手を取ってから、私は神の娘だと呼ばれるようになって、みんなに大事にされるようになっていた。嬉しかったです。私は誰かを助けるよりも、守って欲しかったから」

「……。神の娘としては、失格ですね」

「そう……ですね。そう思います。だってアレスと結婚して一番嬉しかったのは、アレスに守ってもらえることだった。だからハウゼル女王国の人達がよくお屋敷にくるようになって、アレスがどんどん、権力とかそういう話ばかりするようになっても、何もしませんでした。アレスに嫌われたくなかったし、みんなが大事にしてくれるのが嬉しくて」

「……」

「アレスは、どうしていますか。……病気って言うのは嘘なんでしょう?」

二度と会いたくないと思っていたし、今も裏切り者と怒声が飛んでくるかと思うと怖い。

だが使い捨てたのは、お互い同じなのだ。やっとそう、思えた。

「あなたが気にする必要はありません。――会っても、話せるとは思いません」

ぱちりとまばたくと、淡々とロクサネが告げた。

「病気、というのは嘘ではないのです。アレスは魔竜を操るため、魔香を使っていました。その中毒になっています」