作品タイトル不明
花束
その日の午後は、書類を持って関係部署を回っていた。それぞれの担当者に説明してサインをもらうのだ。質問されたときのために資料を抱えている。
鋭い質問をされるのは怖いけれど、よりよい仕事のためだと頑張れる。ちゃんと資料を持っている場合は、いそいそと広げて説明を聞いてもらった。納得してサインしてくれる瞬間、手元を見つめながら達成感を味わえる。
中にはくだらないイチャモンのようなことを言う人がいて、精神力が削られることもある。
ある役職付の部屋の前で、打ち合わせが終わるのを待つことになった。急ぎでなければ秘書に渡すのだが、今日中にサインをもらって、明日の朝一番に業者に発注をかけたい。
山積みの書類の中に三日も放置していた、決裁順位が二番目の担当者のせいだ。心の中で、あまり信頼できない要注意人物リストに加えた。
足の裏が痺れてきた。今日の午後はこれにかかりきりで、やる予定だった仕事が溜まっている。組織の歯車というけれど、スムーズに動く歯車は「つまらない存在」なんかではない。過不足ない歯車なら、「優秀」と言っていい。
二番目の担当者には油を差して、ヤスリで錆びを削ってやりたい。流れを止めて、改善する気配もなく、とても迷惑だ。
そんなことを考えているときに声をかけられた。
子ども時代に嫌な思いをさせられた、見たくもない顔だ。
なぜかバラの花束を持っている。勤務時間中に何をやっているのだろうか。夜勤がある兵士は、昼間は勤務時間外だったりするが……。
「……悪かったな」
ぶっきらぼうに、花を差し出された。これは、どういう状況なのだろうか。
「なんですか?」
イラッとした。右手に決裁用の書類、左手に資料の鞄を持っているのが、目に入らないのか? 職場に派手な花を持ち込むなど、何を考えているのだろう。
「受け取れよ」
そう言われても、意味がわかりません。
そのとき、カチャリとドアノブを回す音がした。打ち合わせをしていた人たちが出てきた。
秘書に声をかけられて、そそくさと扉の中に逃げ込んだ。秘書は廊下をちらりと見て、目を見開いた。
花束を見て、それを持つ男の顔を見て、扉を閉める。そのあと、部屋の中にいる私の顔を見た。
もう、やだ。妙な噂になるでしょ、これ。
泣きたくなるのを堪えて、仕事をする。今日だけで何度も繰り返した説明をして、サインをもらった。
部屋を出るときに秘書の机の前を通る。
「何かあったら、遠慮なくこの部屋に引き返していいですよ」
小声で、そんな耳打ちをされた。
そっと息を吐いて、勇気を出して扉を開けた。
まだ、いる。
再度、目の前に花束を差し出された。だが、受け取る義理はない。
「恥ずかしいことをしないでください」
もう、つきまとわれたくない。できるだけ冷たい言い方をした。
男は怒ったような顔をして、花束を胸元に叩きつけるように押しつけていった。
慌てて花束を胸と腕で押さえる。大事な書類にしわが寄った。
「ちょ、何するんですか」
文句を言おうとしたときには、もうかなり遠くにいた。廊下を走っている。――子どもか?
バラの甘い匂いが鼻を刺激する。まとわりつくようで、眉をひそめてしまう。
素敵な花束が、今、ただの邪魔者になっている。もし、これが昔の嘘告の謝罪だとしたら、受け取りたくはない。見るのも嫌だ。
だが、農家の人が丹精込めて作ったバラだろう。ゴミ箱に捨ててしまうのは……。
「おや、どうしたね?」
掃除夫に声をかけられた。
「なんだか、よくわからないのだけど、花束を押しつけられたの」
「廊下を走っていた男か?」
文官棟の廊下を走る男など、彼以外いないだろう。
「そう。気味が悪いから持って帰りたくないけど、捨てたら花が可哀想でしょ?」
「ああ、なら、もらってあげようか」
「本当? 助かるわ」
掃除のおじさんが腕の中の花束を、胸に手が触れたりしないよう、丁寧に取り出してくれた。
穢れたものから解放されたようで、体がふっと軽くなる。
「おじさん、ありがとう」
軽く手を振って、自分の席に戻ることにした。
その花束は、男子寮の入り口に飾られた。
「お、久々に、『捨てるに捨てられない花』じゃん。誰が玉砕したんだろうな」
「今日の午後、地方から派遣された兵士が、花束を抱えて文官棟をうろついていたらしいぞ」
「ということは、上京してすぐに一目惚れ? っていうか、勤務時間中に何してんだ」
そんな会話を、私が知ることはなかった。