作品タイトル不明
172.当然の行い
「では早速やってくるのじゃ!」
爺さんはそういって、元気に部屋から飛び出していった。
心なしか歯をつける前に比べて動きが若返った様な気がする――気のせいかな。
そんな爺さんを見送ったあと、ダガー先生がぼつりといった。
「治療はそれでいいけど、予防はどうしたものか」
「予防?」
「歯を無くさないようにする予防だ。端的に言えば歯磨きだな。貴族と庶民では歯を保っていられる割合がすくないだろ?」
「あ、うん。そうだよね」
それもまた、俺にはよく分かる話だった。
マテオになる前世は歯磨きよりもその日暮らしだった村人で、マテオになって爺さんに拾われてからは毎日の朝晩にメイドのお手伝いで歯磨きが出来る貴族。
まわりの村人と、まわりの貴族。
両方見比べるとやっぱり貴族の方が歯が残っている確率が高い。
例えば喧嘩でおってしまったとか、他にも原因があるのにはあるけどやっぱり歯磨きはかなり重要な予防だっていうのが二回分の人生でよく分かる。
「じゃあ歯磨き――のための、歯ブラシを多く作ればいいのかな。なんとかなるのかな……?」
俺は歯ブラシの量産、大量生産について考えた。
歯ブラシは主に豚の背中の毛を使っている、しかし村人時代も含めて、全ての豚の毛が持って行かれたのかと言われればそういうわけでもない。
つまり豚の毛そのものはかき集めれば全然手に入る。
問題はそれを作る職人か――。
「問題は庶民の意識だな」
「え?」
ダガー先生のつぶやきに驚いた。
俺とはまったく違う事を考えているようで、しかもそれがどういう事なのかきいてもピンとこないものだった。
「それってどういう事なの?」
「歯ブラシはそこそこの値がはる」
「う、うん」
「その歯ブラシを作って、配ったとして。もらった庶民はどうする?」
「どうするって、歯ブラシなんだから歯を――」
そこまで言いかけて、ハッとした。
前世の自分が急に頭の中に顔を出してきた。
村人だった自分が仮に高価な歯ブラシをもらったとして。
それを使って歯を磨いた方が健康で長生きできるよ、と言われたとして。
そうであっても、たぶん村人の俺は――。
「売って生活費にしちゃう、かな」
「正解だ。十中八九そうなる」
「それは……こまるね」
「そうだ。歯の方は手術して埋め込むわけだから簡単に抜いて転売できないしそこまでする人間はまだ別次元の問題を抱えている。それとはちがってもらった道具は簡単に転売する事ができてしまう」
「うん、問題だよね。どうしよっか……」
これはどうにかしたかった。
ゴールが見えてて、前後の道もちゃんとしてて。
あとは見えている障害一つだけという状況だから、それを何とかしたいとおもった。
思ったけど、村人経験があって自分もそうするだろうなっておもうだけに、中々いい方法がおもいつかないのだった。
☆
「神がお困りだと聞きました」
夜、リビングのなか。
ひとまず帰ったダガー先生とほぼ入れ替わる様にして、ヘカテーがやってきた。
若返った幼げな容姿のヘカテーは、アンバランスにも見えてしまうほどの敬虔な表情で俺の前に立った。
「お困りって……え? もしかして」
「はい、歯ブラシの事でお困りだとききまして」
「誰から聞いたの?」
俺は驚いた。
その事を誰かに話した記憶はない、というか今日遭遇したばかりの課題だ。
だから誰にもまだ話していない、なのにも関わらずヘカテーはその事でやってきた。
「神の使徒として、常に神の御心に寄り添いあい、神に尽くすことを心がけています」
「それでわかっちゃうの?」
「はい」
ヘカテーはまっすぐ俺を見つめたまま、迷い無く、かといって力むこともなく。
本当に淡々と、当たり前の事をいってるような感じで返事してきた。
正直それでちょっとこまったが、あまりにもヘカテーが当たり前のようにいうもんだからそれが当たり前の事なんだと思ってしまった。
「えっと……ありがとうね」
「もったいないお言葉」
「それで、ヘカテーが来たって事は、何か方法があるって事なの?」
「はい、ございます」
これまたはっきりと言い切ってしまうヘカテー。
あれこれ考えても答えが出なかったから本当なのかと思ったけど、ヘカテーの性格上出来ない事を出来る――しかも神だと思っている俺にそう言ってくることはないはずだ。
本当に何かあてがあるんだろうなとおもった。
「どうするの?」
「いつも通りでございます」
「いつも通り?」
「はい、私達にはいつもの通りでございます」
「えっと……よく、わからないんだけど」
「神は人々の事をおもい、歯を大事に保てと仰せになった」
「えっと……うん」
ちょっと引っかかる所もあるが、ヘカテー視点だと確かにそういういい方になるよなと受け入れた。
「神のお告げでございます、人を慈しみ愛する 大御心(、、、) でございます。であればルイザン教総出で布教するのが筋であり、使命であり、幸福でございます」
「えっと……うん」
返答に窮して、同じセリフを一言一句つぶやいてしまう形になった。
これまたヘカテー視点では当たり前の事だからなにも言えなかった。
本当になにもいえなかった。
これが変なこととか何かの私利私欲とかだったら話は別だったんだが、今回はみんなを健康にしたいというのが目的で、それがヘカテー変換で「人を慈しみ愛する」だから何も言えなかった。
「ですので、神のお告げを広める許可を頂きたく参上いたしました」
「……本当に、広められる?」
そう、ヘカテーに確認した。
何も言えないのは結局の所俺の感情の問題だから、それをいったん忘れることにした。
ヘカテーはまっすぐと俺を、迷いのない眼差しで見つめて。
「はい」
頼もしく感じるほどの迷いのない口調でいいきったのだった。