軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

25 回復への日々

マリアンヌの現地工場視察も終わり、ゴム工場やガス工場、学校も親子で見学した。ニコラスはホランドの上級学校がいたく気に入ったようだった。

楽しい時間には羽が生えている。マリアンヌ一行は帰国の途に就いた。

□ □ □

ホランドから帰国した一行はそれぞれいつもの暮らしに戻った。ハロルドも王宮での祖父母による激甘生活から自分の家に戻った。

しかしマリアンヌだけは元に戻れなかった。手がかかるようになったフローラと遊んだりニコラスと細かい工作をしてみたりしているが、作業場には決して入らなかった。

庭師のトムはそんなマリアンヌを案じていた。今日もマリアンヌは力の入らない眼差しで庭の花を眺めている。

「今年は月光草の咲き具合が良いのですよ」

トムの声でハッと我に返るマリアンヌを見て、言葉を選びかね、トムも視線を遠くへ向ける。

しばらくして思い切って言葉を続ける。

「お嬢様は六歳の頃から人のためにずっと忙しく働いていらっしゃいました。ご自分のために時間を使うことも、たまには必要ですよ」

「ええ。そうね」

その声の虚な響きにトムは不安になる。生まれた時からお嬢様を見てきたが、こんな生気のないマリアンヌは初めて見た。

(旦那様、どうかお早くお帰りくださいませ)

トムは祈るような気持ちでアレクサンドルの帰りを待ちわびた。

マリアンヌも自分の変化に気づいていた。ちょっとしたことが覚えられず記憶力が恐ろしく落ちている。何を食べても美味しくない。というより味が感じられない。

これではだめだと奮起するのだが、以前は午前中に終わらせた用事が一日経ってもほとんど終わらない。疲労感が酷く、ぼんやりと庭を見ているうちに夕方になっている。心が動かず、自分の周りに膜が張っているかのようだ。

ハロルドもニコラスも常にない母の雰囲気に気づいていた。フローラも何かを感じ取るのだろう、やたら甘えたがる。

アレクサンドルがゴルデス国から帰国したのはそれから更にひと月以上経ってからだった。

「アレックス、おかえりなさい」

アレクサンドルは出迎えたマリアンヌが痩せて覇気がないのに驚いた。執事から様子は手紙で知らされていたが、マリアンヌからは元気そうな手紙が毎週届いていたのでここまでとは思っていなかったのだ。

「マリー。ちゃんと食べているかい?今日は君の好きな鶏肉の煮込みを料理長に作ってもらおうね」

「ええ、楽しみだわ」

微笑む顔に力がなく、アレクサンドルは胸が痛い。

「マリー。ゆっくりやすみなさい。君は走り続けてきたから休養が必要だよ。僕の大切な奥さん、焦らずのんびりだよ。わかったかい?」

「アレックス」

マリアンヌがアレクサンドルの胸に顔を埋めて静かに泣き出した。なぜ泣いているのか、本人にもわからない。ただ泣いていると癒される気がした。アレックスはマリアンヌをそっと抱きしめて彼女の頭に顎を乗せる。頭が細かく震えているのは泣いているせいだろうか。震えているのだろうか。

痩せて細くなった体はあの眩しいほどのエネルギーを失って折れてしまいそうだ。

アレクサンドルは昔も思ったが、マリアンヌは自分への評価が低い。ずば抜けた頭脳と愛らしい容貌なのに、驕るどころか自分の価値を否定する傾向がある。今も自分の作品や自分の存在そのものに自信を失っているのだろうと思うと切ない。

医者は休養と家族の見守りが必要だという。疲労困憊してる病人だから励ますなと言う。

何を言えばいいのか。どうすれば彼女は回復するのか。アレックスも苦しんでいた。

マリアンヌの作業場はニコラス発案のアメンボの製作で大忙しだったが、作業員たちは

「マリアンヌ様はなんの心配もしないでゆっくりしてくださいね」とマリアンヌを気遣う。

それでもニコラスやフローラと遊んでいる時はわずかに表情が明るいので育児メイドのレイアは重くは考えず(そんな時もあるわよ。天才の奥様だって人間だもの)と大らかに受け止めていた。

ここで俄然力になったのはフローラだ。

「おかーたま、あいっ!」

手渡してくれるのは庭の花だったり、草むらで見つけたカマキリだったり。

その度にマリアンヌは微笑んだり「わっ!」と驚いたり。仕事を離れ生命力溢れるフローラと遊ぶことが程よい刺激となっていた。

だが一度切れてしまったマリアンヌの心の糸はなかなか戻らず、状態は一進一退を繰り返していた。公爵邸の使用人たちは、皆が心配を胸に仕舞い込んで表面上は明るく働いていた。

カタリナやピーター、双方の両親や祖父は頻繁に見舞いたがったがマリアンヌの気力がなくてやんわり断られ、会えずにいる。

アレクサンドルは戦争に飛行船や自動走行機を使うことは必要なことだったと思うものの、結果としてマリアンヌの心を疲弊させたことに苦悩していた。

そんな生活が数年続いた。アレクサンドルの献身的で愛ある見守りは続いていた。泣きたい時は泣きなさい、と言うとマリアンヌは静かにアレクサンドルの胸で泣いた。

ハロルドは十一才、ニコラスは八才、フローラは五歳になった。

夫のアレクサンドルは三十七才、マリアンヌは三十一才である。

少し前からマリアンヌの笑顔に生気が戻り、周囲の人々は涙を浮かべて喜んでいる。

その朝、フローラが朝の食事時にマリアンヌにお願いをした。

「私、お母様と乗馬をしたいの。いいですか?」

「いいわよ。遠乗りに行きましょうか」

マリアンヌが誰かのお願いを聞くのは実に久しぶりだった。