作品タイトル不明
457.流域の風景
重厚な駆動音を響かせる魔導船「アビエラ・グレイス号」と、その側面にピタリと並走する「ウル・ヨルン号」の二隻は、緩やかに流れる大河を、上流へ向かって悠然と進んでいた。
ふと岸辺に目を向ければ、そこには原始的ながらも確かな人間の営みがある。
現地の住民たちがきらめく水面でせっせと洗濯に励み、あるいは年季の入った漁具を丁寧に手入れしていた。この流域に暮らす人々は、意外にも割と現代的で、文化的な生活様式のようだ。
木造の家々が整然と立ち並び、彼らが身にまとっている衣類は、おそらく西大陸から交易によって持ち込まれたであろう古着のようにも見えた。どこか見覚えのある異国のデザインが、この南国の風景に不思議と溶け込んでいる。
「このあたりに住まう人々は、まだ冒険者ギルドや交易商人との交流も深く、西大陸語を少しであれば解する者も少なくありません」
案内役を務めるヨハンが、船の進路を見据えながら滑らかな口調で説明を添えた。
「なるほどな。この広大な島すべてが、外界を拒絶する未開の原住民ばかりというわけではないのか……」
ラルフは甲板の手摺りに寄りかかり、熱帯特有の肌にまとわりつく湿った風を受けながら、手にしたグラスを傾けた。中に入ったジンジャーエールの氷が、カランと涼しげな音を立てる。
「その通りです。しかし、それもこの大河の恩恵が届く範囲でのこと。奥地にいけばいくほど、保守的になり、外界との交流を完全に絶って独自の原始的な暮らしを営む部族が潜んでいます」
ヨハンが声音を少し落として告げると、背後から別の声が重なった。
「……ふむ。しかし、どこかで耳にした噂通り、やはり河辺に暮らす民というのは子だくさんなのだな」
愛用の釣り竿を熱心に点検していた国王が、手元から視線を外して岸辺を見やる。
そこには、突如として現れた二隻の巨大な魔導船に向けて、ちぎれんばかりに大きく手を振っている現地の子供たちの姿があった。
彼らにとって、最新鋭の魔導技術の結晶である外国船など滅多に拝めない奇跡の産物なのか、あるいは、ここを通り過ぎるすべての船に対してこのような歓迎を行っているのか。文明の利器に毒されぬ素朴な生活を営む民にとって、日常の退屈を破るすべての異変は、極上のエンターテイメントになり得るのだろう。
「漁業が生活の中心かと思いきや、どうやらそれだけではなく、農耕もしっかりと営んでいるみたいだな」
ラルフの優れた視界が、ひらけた緩やかな傾斜地に広がる緑を捉えた。きれいに耕された 畝(うね) に沿って、規則正しく整列した大きな葉が青々と茂っている。
「ええ。あのキルト・キャンプでも売られていた、あの丸々としたイモは、まさにこの集落から運ばれてきたもののようですね」
「あー……。あの、タロ芋に似たやつか」
ヨハンの補足に、ラルフはすとんと腑に落ちた。確かに、活気に満ちたマーケットの一角で、ふくよかな体付きの現地女性が威勢の良い売り声を上げながら、泥のついた巨大な塊茎を並べていた光景が脳裏に鮮みがえってくる。
やがて船が進むにつれ、のどかだった岸辺の景色は徐々に影を潜め、鬱蒼とした、まさに「ジャングル」と呼ぶに相応しい濃密な原生林へと変貌を遂げていった。
しかし、深く、そして果てしない量の淡水を湛えて流れるダキヤラ河は、この巨大な二隻の船が何ら速度を落とすことなく、悠々とすれ違えるほどの圧倒的な川幅を誇っている。
その時、不意にエリカがラルフの袖を引いた。
「ねえ、ラルフ。さっきマーケットで、飲料用のお水を買わなかった?」
「あ、いや。アレは手洗いとか雑用にとりあえず買ったやつだ。もしのどが渇いたのなら、そっちのジュースにしておけ」
「え? なんでよ。わざわざお水があるのに」
怪訝そうに眉をひそめるエリカに、ラルフは苦笑を交えながら首を振った。
「よく言うだろ、旅先では『水が合わない』って。あれはな、別に悪意ある毒が仕込まれているわけじゃないんだ。ただ、その土地における『普通』の成分や菌のバランスが、僕たち異邦人の身体にとっては時として牙を剥く凶器になる、っていう単純な話さ。異国の水に中てられたら、それこそ地獄を見るぞ。警戒しとくに越したことはない」
ラルフが真剣な面持ちで諭すと、背後から足音が近づいてきた。
「ああ……全くもってその通りだ。もしもこの先の旅路を、" 厠(かわや) の住人"として惨めに過ごしたくなかったら、 生水(なまみず) の摂取など論外だな」
そう言って眼鏡の奥の瞳を光らせたのは、錬金薬学のプロフェッショナルであるアルフレッドだ。その専門家としての説得力がありすぎる比喩表現を、エリカは瞬時に理解した。
顔をわずかに青くした彼女は、おとなしくクーラーボックスへと向かい、ロートシュタインからわざわざ持ち込んできた、清涼な果実水のボトルを引っ張り出した。
「なあ、ここいらで少し、船を岸に近づけてみないか?」
ラルフが周囲の様子を窺いながら提案する。
今回の過酷な学術調査における主要な目的の一つは、アルフレッドによる未知の植物採集だ。この南国特有の、独自の進化を遂げた植生を網羅することに他ならない。(もちろん、おまけとして国王の個人的な趣味と実益を兼ねた魚釣りも含まれているのだが)。
「ああ、そうだな。素晴らしい提案だ。見ろ、あそこの水際に奇妙な大輪の花々が咲き乱れている。実に見事だ、非常に珍しい種に見えるな。ぜひ近くで観察させてくれ」
アルフレッドは早くも学者としての血が騒ぐのか、気が気でない様子で観察用ルーペを取り出している。
ラルフはその熱意に苦笑いを浮かべつつ、大声を張り上げた。
「フィセ! 少しここで休憩を入れるぞ!」
隣をぴったりと並走するウル・ヨルン号の甲板に向けて、的確に指示を飛ばす。
二隻の魔導船は速度を落とし、回頭しながらゆっくりと岸辺へと肉薄していく。
そして、文字通り、その濃密な原生林から突き出た大樹の枝や、生い茂る木々に手が届きそうなほどの至近距離に停泊した。やがて、重低音を響かせていた魔導炉の振動が、小さく尾を引いて完全に停止する。
途端に訪れる静寂――と思いきや、そこは原始の魔境だった。
静まり返るかと思われた森の奥から、すぐさま「ギャー、ギャー!」「クワー、クワー!」と、猿のものなのか、あるいは獰猛な化鳥のものなのか判別のつかない、野生動物たちの騒々しい咆哮が響き渡る。さらに、彼らの頭上からガサガサ、と激しく葉の擦れ合う音が響いたかと思うと、太陽の光を反射して極彩色の輝きを放つ巨大な鳥が、激しく羽ばたきながら飛び出していった。
ラルフは唖然としたままその軌跡を目で追い、頭上を見上げた状態で言葉を漏らす。
「なんか……想像以上にいろいろ、いそうな場所だなぁ……」
それは未知への不安なのか、あるいは生理的な気味悪さなのか、複雑な感情が混ざり合った吐露だった。
すると、その緊迫感を破るように、
「?! ラルフ、静かにしろ……。あそこの茂みの奥、よく見てみろ」
アルフレッドが唐突に声音を尖らせ、甲板の上から鬱蒼としたブッシュの中を鋭く指差した。
「ん? なんだよ、アルフレッド。何かヤバいものでもいるのか?」
ラルフは目を凝らし、指摘された方向を凝視する。だが、そこには月日の流れを感じさせる古びて傾いた大木や、複雑に絡み合う蔦、そしてただただ青々と生い茂る熱帯の草むらしか視界に入ってこない。
「……わからないか? あの、草葉の隙間からこちらを射抜いている、あの『目』だ」
「ん? 目、だと……?」
ラルフはさらに視神経を集中させ、そこにある景色を注意深く観察する。
ふと、焦点を真っ直ぐ合わせるのではなく、あえて少しだけピントをずらすように、視界全体を俯瞰させる。それはまるで、高度な間違い探しや、不可思議なトリックアートを解析する際の特異な視界の動かし方だった。
その瞬間、風景の境界線が歪み――。
「ッ?! ……あ、あれ、虎、か……っ!」
ラルフは喉の奥で息を呑んだ。
背筋に冷たい戦慄が走る。
なぜ、最初から"見えなかったのか"。
そこには、あまりにも特徴的な、黄色と黒、そして白色の美しい縦のストライプ模様があった。
それが、本来ならば圧倒的に緑色が多いはずのジャングルの中にあって、どういうわけか周囲の光と影、草木の揺らぎに完全に 同化(カモフラージュ) していたのだ。
そしてその絶対的な捕食者は、微動だにせず、獰猛な琥珀色の瞳でラルフたちの動向をじっと見つめていた。
「おい、まさか……いきなりこっちに襲いかかってきたりはしないよな……?」
ラルフは極力身体を動かさないよう、小声で隣のアルフレッドに尋ねた。
「ああ、おそらく大丈夫だ。見慣れない巨大なモノがやってきたから、好奇心で様子を見に来ただけだろう。こちらから刺激しなければ問題ない」
「なら、いいけどよ……」
アルフレッドの冷静な分析通り、張り詰めた空気の中での睨み合いがしばらく続いたが、やがて唐突に、まるで玩具に飽きたかのように虎は興味を失った。音もなく踵を返すと、その美しい巨体は一瞬にして奥地の大自然へと溶け込み、消え去っていった。
張り詰めた空気が弛緩したその時、先ほど手に入れた果実水を美味そうに喉に流し込みながら、エリカがトコトコと甲板を歩いて近づいてきた。
「あら、可愛いニャンコだったわね。うちの"お母さん"に比べたら全然小さいし、なんだか物足りないくらい」
(ニャ、ニャンコ……? あ、そういえばそうだった……)
ラルフは遠い目をしながら、自らの本拠地である領主館の光景を思い出す。
あそこには、主にエリカが甲斐甲斐しく世話係をしている、通称"お母さん"と呼ばれる、人間の力では到底太刀打ちできないほど凶暴かつ巨大なフォレスト・ウルフが堂々と君臨しているのだ。さらには、それよりも遥かに危険極まりないはずの、天空の支配者たるワイバーンが二頭も、庭先でペットとして飼われている。
一体全体、基準がどこにあるのか? 大自然の神秘に対する恐怖のバロメーターが、とっくの昔にバグり散らかしているラルフ一行であった。
そんな奇妙な日常の麻痺が露呈する中、アビエラ・グレイス号の反対側の 舷側(げんそく) では、また別の狂騒が始まろうとしていた。
「よーし! お前たち、モタモタするな! 小舟(カノア) を下ろせ!」
国王の威厳に満ちた(しかしどこか子供っぽいワクワク感を隠しきれていない)号令が響き渡る。
「ふんがぁーーっ! 気合を入れろ!」
「ゆっくりだ、ゆっくり下ろせ!」
屈強な家臣たちが、ロープによって水平に吊るされた木製の小舟を、慎重に水面へと着水させようと額に汗を浮かべていた。どうやら、本格的に釣りを開始する構えのようだ。
小舟がパシャリと水面に落ち着くのを待ち侘びていたかのように、国王は身軽な動きで縄梯子を滑るように降りていく。
トンっ! と軽い足取りで小舟に飛び乗ると、その顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
「フッフッフ……見ろ。あの、木々が水面に覆い被さるように生い茂るオーバーハング……。あそこには、確実に何かが潜んでおる。余の釣り人の勘がそう告げておるわ」
国王は確信に満ちたギラついた目で、木の枝と複雑な葉の影が作り出す、深く暗い水面の陰影を睨み据えている。
そして、運命の第一投。
シュンっ! と、鋭く風を切る音と共に釣り竿が振られた。
どうやらこのポイントでは、水面を意識したトップウォーターの 疑似餌(ルアー) を選択したようだ。
慎重に、時に大胆に。水面をのたうち回る傷ついた小動物や蛙の動きを模倣するように、国王は巧みなロッドワークとリール操作を繰り出し、 疑似餌(ルアー) にまるで命が吹き込まれたかのような完璧な演技をさせる。
「まあ、そうは言っても、そんな簡単に大物が釣れるわけないと思うがね!」
ラルフは緊張感から解放されたのか、甲板の縁に気楽に腰掛け、両足を空中へと放り出すようにぶらつかせながら、眼下で展開される光景を呑気に高みの見物と決め込んでいた。
「もしも、すっごくでっかいのが釣れたら、アタシが特製のカレーにしてあげるわ」
と、エリカもその隣へとやってきて、ひょこっと顔を出しながら国王の釣りを眺めはじめた。
「まあな、世の中そんなに上手くはいかんよ。何事もな! ファぁ――」
ラルフがそう言葉を紡ぎ、あくびを吐き出そうとした、まさにその瞬間だった。
ユラァァ……、
静寂を保っていたはずの水面下に、突如として、信じられないほど巨大な『漆黒の影』が浮上してきた。
そして、うねるように広がる不気味な波紋。
ラルフもエリカも、その圧倒的な存在感を前にして、ゾワァァッ! と全身の毛穴が開き、鳥肌が立つかのような本能的な衝撃を覚える。二人は思わず、跳ねるようにして後方へと後ずさった。
そして――バシャン!!! と水面が爆ぜた。
凄まじい水飛沫が上がり、激しい衝撃波が周囲を揺らす。
ジィィィィィィィィィィィ――ッ!!!
国王の手元で、あらかじめ緻密に設定されていたはずの許容トルクを遥かに超えたリールが、悲鳴のようなラチェット音を激しく響かせ、凄まじい速度でラインを吐き出していく。
「喰ったぁぁ! 喰ったぞぉぉぉ! ぬぉぉぉぉおおお! 重い! デカい! デカすぎるぞぉぉおおお!」
「へ、陛下っ! しっかり捕まってくださいっ!」
小舟の上で同乗していた家臣の一人が、転覆の危機を感じて青ざめながら、国王の腰を必死の形相でガッチリと掴み、その身体を支える。
このような未知の魔境で、前代未聞とも言える一国の王と、大河の主たる野生の巨大魚による、命を懸けた壮絶な決闘の火蓋が切られたのだった。