作品タイトル不明
452.波立ちぬ
眩いばかりの初夏の陽光を浴びて、ロートシュタインの港は歓声に包まれていた。
波止場を蹴って大海原へと滑り出したのは、ロートシュタイン領が誇る二隻の魔導船――『ウル・ヨルン号』と『アビエラ・グレイス号』である。
遮るもののない青空はどこまでも高く、どこまでも澄み渡り、護岸を埋め尽くした領民たちからは、腹の底から響くような朗らかな見送りの声が途切れることなく押し寄せていた。
「領主様、いってらっしゃーい!」
「美味いもん、たっぷり仕入れてきてくれよなー!!」
「お土産、期待してるぜーーっ!!」
乗船しているのは、国王陛下をはじめ、――ラルフを取り巻く、良く言えば賑やか、悪く言えば騒々しすぎる愉快な仲間たちだ。
潮風が心地よく頬を撫で、その風に乗って海鳥たちが優雅に輪を描いている。まさにこれ以上ない、完璧な船出のロケーションだった。
「あぁぁぁぁぁぁッ! 最高だぁ! 最高すぎるぅぅぅぅぅぅ!」
アビエラ・グレイス号の舵輪を文字通り掴んで放さず、鼓膜が震えるほどの歓喜の絶叫を上げているのは、この船の指揮を執るメリッサ・ストーン船長。
彼女の放つ、白亜の魔改造船に対する愛は、もはや爆発的という表現すら生ぬるい。完全に理性のタガが外れていた。
尚、そのアビエラ・グレイス号と美しい航跡を描きながら並走するウル・ヨルン号の先端ブリッジに目を向けると、そこにはさらに凄まじい光景が広がっていた。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉ! 自由だぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「……へ、陛下っ、危ないですから! それ以上前に出られると――うぶぇラッ!?」
なんと、一国の最高権力者たる国王陛下が、船首の最先端で両手を大きく広げてタイタニック……いや、雄叫びを上げておられる……。
そして、その背後からは顔を真っ青にした宰相閣下が、必死の形相で陛下の腰に縋り付いていた。
その光景を見たラルフは、
(……なんて無様な、名シーンの 再現(ディザスター) だっ?!)
心の中で全力のツッコミを禁じ得なかった。
前世の記憶にある、あの沈みゆく豪華客船を舞台にした世界最高峰の壮大なラブロマンス映画が、今、こちらの世界で初老のジジィ二人によって完膚なきまでに汚されていく。その精神的ダメージは計り知れない。
「はっはっはー! 速い速い! この魔導エンジン、やはり別格のトルクだわ!」
隣の船の惨状などどこ吹く風、メリッサのハイテンションは留まるところを知らない。
「おーい、メリッサ! 風向きが良い時はちゃんとマストも使えよ~! これから先、何があるか分からないんだ。魔力タンク代わりの魔石はなるべく節約していく方針で頼む!」
船の燃費と予期せぬトラブルを懸念しデッキから声を張り上げたのだが、
「アハっ! アハっ! アハハハハハっ!」
ダメだ。
完全に手遅れだった。
彼女の両目からはハイライトが綺麗に消失している。
重度の船オタクである彼女は、最新鋭の魔導船をその手で操る快感によって、同時に一級のスピード狂としても覚醒してしまったらしい。間違いなく、アクセルを踏み抜くことしか考えていない目だ。
「すごーい! お兄ちゃん、一面が真っ青だよぉ!」
「ねぇ見て! どこを見ても、青、青、青だよっ!!」
ミンネとハルが、ブラウンヘアーをなびかせながら、水平線まで続く雄大な海原を眺めていた。
二人はデッキの上で、まるで喜びを表現するステップを踏むようにくるくると踊り、無邪気な感嘆の声を上げている。
「ねぇ! ほら、あそこに可愛いお魚さんがいる!」
ハルが興奮気味に、アビエラ・グレイス号のすぐ横を滑るように進む海面を指差した。
特製のデッキチェアーに深く腰掛け、いかにもリゾート地といった風情のカラフルなトロピカルカクテルを傾けていたラルフは、目元にかけたサングラスをくいと指でずり下げた。
「ああ。あれはな、イルカって言うんだよ。……まぁ、魚というよりは、実は肺で息をする哺乳類の仲間でな……」
そこまで説明しかけて、ふと我に返り、言葉を切った。
せっかく未知の船旅を全身で楽しんでいる幼い二人に対して、前世の蘊蓄を並べ立てるような生物学の講義は、どう考えても野暮の極みである。
「凄いねー! スイーって滑るように泳いで、シュバッって綺麗に跳ぶの! 速い速い!」
まるで船の速度を競い、あるいは歓迎してくれているかのように、波間を跳ねて並走するイルカたちの群れ。二人は船の柵から身を乗り出すようにして、その愛らしい姿を瞳を輝かせて見つめていた。
すると、不意にハルが振り返り、首を傾げた。
「ねぇ、このイルカさんって、食べられるの?」
無邪気が過ぎる。
あまりにもストレートで、とんでもない質問が飛んできた。
「あ、え、えーっと、その、だな……。食べられないことは、ない……というか。その、あー、いや、でも。今回はやめておいた方が、いいかな……うん」
予想外の角度からの問いかけに、ラルフは完全にしどろもどろになりながら答えた。
「ふーん……そうなんだ?」
ハルは不思議そうにパチクリと瞬きをしていたが、それ以上は追求してこなかった。彼女は基本的に、ラルフの言うことには、絶対の信頼を置いて疑問を持たない素直な子なのだ。
だが、それは前世の記憶を持つ彼にとって、非常にシビアかつ胃の痛い話題だった。
実を言うと、日本の特定の地域では、古くからイルカを貴重なタンパク源として食す文化が存在していた。
しかし近年では、とある海外の勢力や環境団体から、それが極めて野蛮で倫理観を欠いた行為であるとして激しい非難を浴びている。
まさに、西洋的な動物愛護の価値観と、日本の伝統的な食文化および海辺で生きる人々の営みが真っ向から激突した、文化的不理解と価値観の断絶が生み出す、悲しき齟齬の象徴。
(……待て待て、ここでそんなややこしい国際社会問題やポリティカル・コレクトネスを持ち出して、この『居酒屋領主館』というハートフル(?)な作品に余計な"ミソが付く"のは非常に危険だぞ。読者が求めているのは美味い飯とコミカルな日常だ!)
と、作者の気持ちを代弁するように、脳内の警報に従って早々にこの話題を強引に切り上げることにした。
「ほらほら! 二人にも、冷たいトロピカル・フルーツジュースを用意してあるぞ! どうだ、飲むか!」
足元に置いていたクーラーボックスをパカッと開き、キンキンに冷えたガラスボトルを取り出してみせた。
「わーい! 飲みたい!」
「ねぇねぇ、ミンネちゃん。私たちも、サングラスしよ!」
「うん、する!」
素晴らしい。
しっかりと、話題が逸れた。
(勘のいい子は、大好きだよ……)
とラルフは満足気に頷く。
ほどなくして、三人はデッキチェアーに横並びで寝そべっていた。
抜けるような青空、肌を焦がす一歩手前の心地よい日差し、そして遠く近くで響くカモメの鳴き声。
どこからどう見ても、完璧なバカンスの一幕がそこにあった。
ラルフは薄い色のレンズが入った、クラシカルなラウンドタイプのサングラス。
ミンネは目尻がツンとつり上がった、おしゃまなキャッツアイ調の大きなもの。
ハルは、顔の半分が隠れてしまいそうなほど、まん丸で真っ黒なものをかけている。
日常の喧騒を一切合切投げ打って訪れた、一時の休暇。なんとも微笑ましく、絵になる光景だったのだが――。
「うぉぇ……。ねぇ、ラルフ……酔い止めの、魔導薬とか、持ってないかしら……。ちょっと、あたし、なんか……この不規則で変拍子な、波のバイブスが胃袋に直接キてて……」
自分の腹部をキツそうに抱えながら、青い顔をしてゾンビのように現れたのは、普段の勇ましさがミリメートルも残っていないエリカだった。
「あー。船酔いか。それなら僕のより、アルフレッドの部屋に行ってあいつを頼れ。あいつが調合した酔い止めの方が、絶対に、確実に効くぞ」
ラルフはサングラスの端を少し持ち上げながら応えた。
錬金薬学の権威であり、変態的なまでの探究心を持つアルフレッドだ。ラルフが適当に錬成したモノよりは、彼の特製薬の方が遥かに信頼性が高い。
「そう……ありがとう……いってみる。ブォェッ」
いつもの男勝りな威勢の良さはどこへやら。エリカは完全に背中を丸め、生まれたての小鹿のような足取りで船室の奥へと消えていった。
再び、ラルフは上空の青を眺めながら、
「ケッケッケッ! 最初こそめんどくせーって思ったけど。なかなかに、良い休暇ではないか〜。まあ、ファウストさんには、ちょっとばかり同情するけどねぇ」
ラルフ口元に凶悪な笑みを浮かべながら、ストローでカクテルをズズッと啜った。
その頃、遥か遠く、ロートシュタインの領主館執務室では――。
「ハックションッ!!」
盛大にクシャミを響かせたのは、ファウスティン・ド・ノアレイン公爵その人であった。
「旦那様。文字通りに『ハックション』なんて、絵に描いたようなクシャミをする人、私、人生ではじめて見たんですけど……」
冷ややかな白い目を向けながら、書類の束を整理しているのはメイドのローラだ。
「ズズズッ……。クソ、絶対にラルフの奴だ。あいつ、今頃、口先だけで俺を憐れみながら笑ってやがるんだ……!」
鼻をすすりながら、恐るべき執念、いや、転生者同士の直感か。ファウスティンは寸分の狂いもなく、海の上のラルフの脳内を完璧に言い当てていた。
「何を言っているんです。いつもお世話になっているラルフ公爵さまへのお礼、兼、お詫びを兼ねた業務代行ですよ! 王国の重鎮として、そのくらいバシッとこなすべきです!」
ローラはいつも以上に容赦なく、厳しい口調でハッパをかける。
「はぁ~~~、クソぉ! なんでこの俺が、文字通り『ダブル・ワーク』で書類の山に埋もれにゃならんのだ……!?」
天を仰ぎ、深いため息をつくファウスティン。
国王陛下の突然の思いつきによる学術調査に引っ張り出されたラルフに代わり、現在、ファウスティン公爵は一時的に二つの広大な領地の書類仕事を同時に掛け持ちさせられていた。
しかも、裏で完璧に根回しされ、退路を断たれた状態の『王命』である。王国のまっとうな貴族として、これに逆らう術などあろうはずがなかった。
「ほら! また手が止まってますよ、旦那様! どうせ、ダレると思って、事前にアンナさんから『これ』を借りてきてるんですからね!」
ローラが警告と共に、机の横からビシィッ! と突き出してみせたのは、
――巨大ハリセンであった。
ファウスティンは、あのラルフの傍らに常に控えている、氷のように冷徹な無表情のメイドがこれを振り下ろす姿を脳裏によぎらせ、頬を引きつらせて再びペンを握り直すしかなかった。
――再び、場面は南方諸島へと向かう紺碧の海の上。
「メリッサ! 寄り道する場所、忘れてないだろうな! 多少の迂回ルートにはなるが、頼んだぞ!」
風の音に負けないよう、ラルフは操舵室に向けて大声を張り上げた。
「オーキー・ドーキー!」
サムズアップを返してきたメリッサの目元には、いつの間にか渋いティアドロップ型のサングラスが装着されていた。
(ん? どこで仕入れたんだ、それ……?)
そんなラルフの疑問を残しつつ、抜群の安定感を誇る魔導船での航海を続けること半日。
たどり着いたのは、ラルフの言うところの『ちょっとした寄り道』の目的地――とある、南国の緑に囲まれた島だった。
船を接岸し、タラップを降りた砂浜で、待ち受けていた一人の男が怒気を孕んだ声を上げる。
「お、お前……ッ! よくもまあ、……"いけしゃあしゃあ"と、俺の前に、そのツラを出せたなぁぁぁぁぁ?!」
以前に会った時よりも、南国の日差しで随分と肌が小麦色に焼けた男が、額に青筋を浮かべて、ラルフを睨みつけていた。
「よっ! コール、久しぶり! いや〜、相変わらず元気そうで何よりだね。……南国の生活は、どうだい?」
対するラルフは、何事もなかったかのように、ひらひらと片手を上げて気さくに挨拶を交わす。
そのあまりにも軽薄で、罪悪感の欠片もない態度に、男はさらに顔を歪ませて怒りを爆発させようとしていた。
――彼の名は、コール・ディッキンソン。
かつて、祖国であるカドス国の再興という壮大な夢を追いかけ、そしてラルフの策略によってその夢を物理的にも精神的にも、完膚なきまでにへし折られた、ラルフの旧友(被害者)であった。