軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

451.遠征前夜

「南方諸島は、このタララヤ島と、こちらのカプアン島が主ですね」

賑やかな喧騒に満ちた店内で、卓上に広げられた古びた航海図を小さな指先で指し示しながら、ヨハンが澄んだ声音で解説を加えていく。その佇まいは幼くとも、紛れもなく知識の探求者としての威厳を漂わせていた。

「なるほど。で、この度の学術調査の舞台は、この北側に位置するタララヤ島ってわけだ……」

ラルフ・ドーソンは組んだ手に顎を乗せ、ふむ、と深く納得したように頷いた。

窓の外では夜の帳が下り、ここ『居酒屋領主館』はまさに営業の佳境を迎えている。ビールの泡が弾ける音や美味なる料理の香りが漂うこの空間こそが、彼らにとって最も収まりが良く、作戦会議、(という名の雑談)に最適な場所なのだった。

「そうです。この大河――ダキラヤ河を、アビエラ・グレイス号とウル・ヨルン号の二隻で遡上することになりますね」

ヨハンの言葉に、隣から地響きのような笑い声が重なる。

「ふっふっふー! 滾る、滾るぞぉ! 未知の怪魚が、儂の竿を限界まで撓らせる光景が目に浮かぶようだわ!」

およそ一国の王とは思えない凶悪なまでの満面の笑みを浮かべているのは、ウラデュウス国王その人だった。この男、今回の遠征を「国家的学術調査」という至極真っ当な名目で包み隠しつつ、その実は自らの最高峰の趣味である釣りを満喫するため、強権を発動して国外遠征の道筋を強引に捩じ伏せた確信犯である。

「これ、もっと南下すると……あのリザードマンたちの故郷か?」

ラルフが羊皮紙の端、未開の海域へと指先を滑らせる。

「あー、あの方たちのルーツは、確かこの辺りに点在する群島だったと記憶しています」

ヨハンの網羅的な知識には、集まった大人たちも感心するばかりだ。

「妾たちのエルフの里は、このカプアン島の内陸……ちょうど、この鬱蒼とした森林地帯の辺りだな」

極上のワインが入ったグラスを傾けながら、輪に加わったのは偉大なるエルフのユロゥウェルだ。彼女の美貌に誘われるように、周囲のテーブルからも多くの常連客たちが身を乗り出し、立ち見で興味深そうに地図を覗き込んでいる。

「ユロゥウェルさんも、今回の遠征に来ます?」

ラルフの問いかけに、彼女は艶然とした笑みを浮かべて首を振った。

「いや、生憎と妾はちと忙しくてな。リネア殿と、新しい 蜂蜜酒(ミード) の銘柄を生み出そうと、日夜試行錯誤の真っ最中なのだ」

そう言って、どこからともなく、彼女が掲げた手には――ブーーーーン! と、店内の喧騒を切り裂くような重低音の羽音が響く。

それは、彼女の手に抱えられているのは、誇らしげに翅を震わせる、巨大なミツバチだった。

「ちょ、ちょっと待って、大丈夫なんすかそれ? 危なくない!? 刺されない!? 頼むから店内にそんな危険生物を持ち込まないでくださいよ!」

ラルフは椅子を蹴立てんばかりに慌てふためき、身を引いた。

しかし、よく見ればちょっとした猫ほどの大きさがあるそのミツバチの魔物は、格好こそトゲトゲしているものの、つぶらな瞳をしていてどこか愛らしい造形をしている。

周囲の女性陣は、最初は警戒して悲鳴を上げたものの、その妙な可愛らしさに気づくと、興味深そうにその大きな瞳を覗き込み始めていた。

「オラァ、通訳として同行すっさ!」

そこに、自信満々に胸を張って割り込んできたのはエルフのミュリエルだ。

「タララヤ島って、確か独特の土着言語だろ? 本当に大丈夫なのか?」

ラルフの疑わしげな視線に対し、

「んんん、まあ、なんとかなっさ!」

と、彼女はどこまでも呑気にケラケラと笑う。

(本当に大丈夫かよ…………)

ラルフは早くも胃のあたりがキリキリと痛み出すのを覚えた。

すると、背後から音もなく忍び寄ったメイドのアンナが、心配そうにラルフの耳元へ口を寄せた。

「旦那様。本当に、あのお二人も連れていくのですか?」

彼女の視線の先――客席の片隅では、ラルフが支給した、いかにも「見習い探検家」といった風情の衣装を纏った幼い二人組――ミンネとハルが、お互いの姿を見せ合ってキャッキャとはしゃいでいた。どうにもコスプレじみていて微笑ましい。

「ああ。ちょっとした息抜き旅行みたいなもんだろ? こうでもしないと……あいつらは根が真面目だから、放っておくと働きすぎる」

店員としてはこれ以上なく頼り甲斐のある二人だが、まだ子供だ。年相応の娯楽や、広い世界を知る機会があってもいいはずだという、ラルフなりの親心混じりの願いでもあった。

「ふんっ! もちろん、あたしも行くわよ!」

不意に、凛とした声でエリカが同行を宣言した。

「いや、まあ……お前が良いなら良いけどさ。海運学科の学食の立ち上げ準備で、今が一番忙しい時期なんじゃないのか?」

「それなら、彼女たちが完璧に回してくれるわよ」

「あー、……はいはい、あのスパイス戦隊たちか……」

ラルフの脳裏に、強烈な個性を放つスパイス・ガールズという名の五人組の令嬢たちが浮かんだ。彼女たちの有能さと、ある種の恐ろしさを思えば、確かに留守を任せても何の問題もない……かも、しれない?

「自分がいなくても勝手に回る組織をつくることこそが、経営者としての究極の理想の形でしょ? そう熱弁してたのは、どこのどなたかしら?」

エリカが意地悪く片眉を上げる。

「え? 僕、そんなこと言った、か? ……まあ、酔った席なら言いそう、だな……」

記憶の彼方にある自らの発言を掘り起こせず、ラルフは頭を掻いた。意外とこういうところはポンコツな男である。

「フッフッフ……。未発見の未知なる香辛料を発見すれば、学術書にあたしの名前が刻まれるのよ……!」

拳を握りしめる彼女の瞳には、野望の炎が燃え盛っていた。どうやら彼女のスパイスに対する執念と趣味も、全くブレることはないらしい。

ふと見れば、すぐ近くの席からも密やかな相談事が聞こえてくる。

「お姉ちゃん、どうする? 今回の遠征、オヤツは金貨五枚までだってよ」

「ええぇ……。お酒って、オヤツのジャンルに含まれるのかしら?」

どうやら、オヤツの概念をどこかに置き忘れた聖女姉妹までもが、完全に観光気分で付いてくる気満々のようだった。

(……もはや、高尚な学術調査というよりは、ただの賑やかな修学旅行だな)

ラルフは手で顔を覆い、呆れ果てながらも、その口元に浮かぶ苦笑いを隠せなかった。

まあ、たまにはロートシュタインを飛び出して、身内でこんなお祭り騒ぎのようなイベントを楽しむのも悪くはないか――。

そう、ラルフが頭を切り替え、前向きに旅のしおりでも作ろうかと考えた、その瞬間だった。

グサッ!

「……あ」

バタリっ……。

ブーーーーン!

「キャァーーー!? ユロゥウェルさん!? ユロゥウェルさんが刺されたーーー!?」

「うわーーー! 蜂、こっち来ないでぇ! 誰か叩き落としてぇ!!」

「うぉっ! なんでこんなところにマッド・アンバー・ビーがいるんだ?! 討伐難易度Cランクだぞ!」

油断してミツバチの魔物を弄んでいたユロゥウェルが、案の定、容赦のない針の一撃を食らって床にぶっ倒れていた。

主を失った巨大ミツバチが、ブンブンと威嚇音を響かせて店内の照明の周りを飛び回り、客たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。

「ああ、もう……だからいわんこっちゃねぇ……!」

ラルフは盛大なため息を吐き出すと、今宵もまた始まった領主館のお約束な騒動を収束させるべく、袖をまくり上げて振り返るのだった。