作品タイトル不明
450.ビター&スウィート
「ああ、忙しい忙しい……あー忙しい……」
「旦那様。吐き出されている文句と、その肉体が置かれている現状に、確実な乖離しか観測できないのですが。少々困惑を禁じ得ないと言いますか、端的に申し上げて白い目を向けざるを得ません」
精巧な 自動式人形(オートマタ) を思わせる無表情なメイド、アンナが、冷徹極まる視線を主人のだらしない姿へと突き刺す。
「あー、忙しい。新設する学校のカリキュラム策定に、南方諸島への学術調査隊の編制および物資調達の準備……。ああ、本当に目が回るほどに忙しい……」
呪文のように多忙を喧伝しながらも、公爵ラルフは重厚な執務デスクの背もたれに深く体重を預け、至福の表情で最高級の紅茶を啜っていた。
その優雅極まる有様に、アンナは(もう何を言っても無駄だろう)と、内心で深い溜息を吐く。
彼女の視線がデスクの端へと移動する。
そこには、公爵として、そして一領主として本日中に承認を必要とする膨大な書類の山が、寸分の狂いもなく完璧に処理され、整然と積み上げられていた。
(まあ、執務さえ完璧に終わらせているのですから、文句の付けようはないのですが……)
実務に於いては一国の宰相をも凌駕しかねない「超有能」であるという事実。それが、目の前の緊張感の欠片もない脱力空間との凄まじいギャップを生み出し、呆れを通り越して一種の畏怖すら覚えさせる。ラルフという男は、そういう底の知れない男だった。
「あー、忙しい……。ねえアンナ、これだけ脳を酷使したんだ。糖分が足りない。チョコレートケーキが食べたいなぁ〜。あー、忙しい……」
「旦那様。そこまでお忙しいと仰る割に、学校設立の件は随分と熱量が引いているように見受けられますが、もう手は離れたのですか?」
「何を言うか! もとよりあの案件は、ブレーキの壊れた暴走特急さながらに、僕のあずかり知らぬ所で進んだ話じゃないか! すでに僕の手を離れて、勝手に色んな権力者や知識人たちが動き回っているんだ。僕がわざわざ泥を塗る必要もない。放っておいたって、世界は勝手に回るさ」
フンス、と鼻を鳴らして憤慨してみせるラルフ。
だが、アンナの関心は別のところにあった。
(トッキュウ……とは?)
わずかに小首を傾げる。
彼の口から飛び出す、時折どこの言語とも知れない奇妙な単語や概念に惑わされるのは、今に始まったことではない。
まあ、それもこれも、ラルフの異常なまでの実務能力の一端なのだろうとアンナは結論付ける。誰かに任せられる仕事は、最適任者を見つけて丸投げする。現場の裁量を信じ、余計な口出しは一切しない。自らが抱えるタスクを極限まで削ぎ落とし、効率化の権化と化す。
――しかし。それら全ての美徳が、彼の生来の「限界突破した面倒くさがり」という強烈な怠惰から生じていることを、アンナは誰よりも深く理解していた。もちろん、主人のプライドのために決して口にはしないが。
「しかし、南方諸島の調査ですか……。未踏の地へ足を踏み入れるとは、なかなかに豪胆な計画ですね。まあ、あの国王陛下らしいと言えば、それまでですが……」
アンナは静かに手際よく、新しい紅茶を淹れ直す。それと同時に、ラルフが甘味を要求することを一分一秒の狂いもなく予期していた彼女は、給仕カートの上で、艶やかな漆黒のグラサージュが施されたチョコレートケーキの一片を準備し始めた。
「まったく……迷惑極まりない話だぜ。なんで僕が、わざわざ未開のジャングル探検の総指揮なんかに関わらにゃならんのよ……。藤岡弘探検隊じゃねーんだからさぁ……」
ラルフは頬杖をつきながら、心底嫌そうにボヤく。
(……フジオカ 某(なにがし) ……誰?)
アンナの脳内にまた一つ、謎の語彙が蓄積される。
一方のラルフは、手元のカップを見つめながら、
(これがもしスズなら、『そこは川口浩探検隊じゃないの?』って即座にツッコミを入れてきそうだなぁ……)
と、あの傍若無人なダンジョン・マスターの少女の顔を思い浮かべていた。
「どうぞ、旦那様……」
アンナが洗練された所作で、淹れたての紅茶とチョコレートケーキの皿をデスクに置いた、まさにその瞬間だった。
――ヒュゥゥゥゥン!
窓の外、領主館の上空を切り裂くような、凄まじい風切り音。同時に、陽光を遮る巨大な影が滑り込んでくる。
刹那、ラルフの左目が怪しく光った。
彼は電光石火の早業で、まだデスクに触れるか触れないかだったケーキの皿と紅茶のカップを、両手で上方へと総毛立つような速度で持ち上げた。
直後。
――ドォォォォォォンッ!!!
領主館の強固な岩盤全体を激しく震わせる、凄まじい質量物の落下音と衝撃波が駆け抜けた。
常人であれば紅茶をぶちまけ、ケーキを床にサヨナラさせているところだが、ラルフは超常的な危険予測能力と圧倒的な身体反射を発揮し、紅茶の一滴すらこぼさずに、惨事を免れた至高のオヤツを静かにデスクへと着地させた。
「……今日の、献上品は、なに?」
引きつった笑みを浮かべるラルフに、窓の外へと視線を向けたアンナが、無表情のまま淡々と報告を入れる。
「あら? ……ベヒモスですね。中量級ですが、立派な個体です」
「またかよ……!」
ラルフはたまらず頭を抱えた。
タダで最高級の魔獣肉が手に入るのは、経済的には喜ばしい。しかし、これによって引き起こされる領地内の食肉の市場価格の乱高下、そして、あの山のような巨大魔獣を速やかに解体し、調理・保存するための人的コスト。それらの複雑な経済原理との調整を瞬時に計算させられる身にもなってほしい。頭が痛くなる。
もっと、普通の、牛とか魚なら可愛げもあるのだが……。今やこのロートシュタインの街において、魔獣肉のジビエは「ちょっとだけ珍しい日常の食材」として定着しつつあった。
窓の外からは、
「ギャオオオオオオオオオーーーッ!!」
と、己の戦果を誇示するように、気合の入った咆哮を大音量で轟かせる影――ラルフの愛すべきペットであり、この街の空の覇者、ワイバーンのレッドフォードの声が響く。
地響きのようなその咆哮は、間違いなくロートシュタイン全域に届いているはずだ。
そして、それを聞きつけた「飢えた冒険者や住民たち」が、今宵も『居酒屋領主館』の開店を待ち侘びて大行列を成すことは、もはや抗えぬ決定事項であった。
さらに、追い打ちをかけるように別の音が鼓膜を叩く。
――ドンドカドンドンドカドン! ドンドカドンドンドカドン!
重低音の効いた、やけにリズミカルで、しかしどこか呪術的な太鼓のビート。
「またアイツラかよ?! だから、人んちの庭を何だと思ってるんだっ?!!」
ついにラルフの堪忍袋の緒が切れた。
また裏庭で、あの型破りな聖女姉妹たちが「謎の蒸留音頭」とやらを踊り狂っているに違いない。今日という今日は一言文句を言ってやると、ラルフは椅子を蹴立てて階段を駆け下り、裏庭へと続く扉を勢いよく押し開けた。
しかし、そこに広がっていたのは、彼の予想を斜め上へと飛び越えた異様な光景だった。
「はぁ?! お前らバカなの?! なんでそんな簡単な振り付けが覚えられないんだよッ?! 脳みそまで発酵してんのか!?」
怒髪天を突く勢いで激を飛ばしているのは、見事に剃り上げられたスキンヘッドに、口元に蓄えた蓄えられた見事な白い髭が特徴的な男だった。
無駄な脂肪が一切ない、引き締まったしなやかな肉体。身長は意外にも高く、威圧感がある。彼は裏庭に転がっていた木樽に偉そうに腰掛け、そのギラギラと野生動物のように鋭い眼光を、限界を迎えている聖女姉妹に向けていた。
「ゼェ……、ハァ……、もう、無理……。脚の筋肉が爆発しそう……だし、そもそも、振り付けの次元が、高すぎて、頭が追いつかない……っ」
芝生に突っ伏し、滝のような汗を流しながら四つん這いになっているのは姉のトーヴァ。
「お、お姉ちゃん……こ、これ、本当に……。この踊りで、本当に……お酒の蒸留のクオリティが、上がるの……?」
ドレスを泥に染め、芝生の上に息も絶え絶えに腰を崩しているのは妹のマルシャ。
「泣き言なんざ、ハナから聞く耳持ってねーんだよ?! ほら、立てよ! その足りねぇ頭に入らねぇってんなら、その無駄に成長した身体に叩き込むしかねぇだろ!」
男は容赦のない怒声を浴びせ、二人に謎の、そして過酷極まるレッスンを強行している。
あまりの光景に毒気を抜かれたラルフは、そっと、打楽器の伴奏を担当しているエリカの元へと擦り寄った。
「お、おい……エリカ。あの、スキンヘッドの熱血鬼軍曹……誰?」
「あらラルフ、この前会ったじゃない。高名な舞踏家で、天才彫刻家でもある、タデウス・ウッドカーヴァーさんよ」
エリカは職人のような真剣な目付きで太鼓のバチを握り直しながら、事も無げに応えた。
「ああ……。あの、暗黒舞踏の……」
ラルフの脳裏に、数日前、『居酒屋領主館』の客席の片隅で突如として披露された、あの前衛的かつ、精神を揺さぶる奇怪な舞がフラッシュバックする。
どうやら、あの時全身を白塗りにしていた不審者一歩手前の人物が、このタデウスという男の素顔らしい。
「ハァぁぁ?! なにそれ?! お前ら、そんな低いプロ意識で金を稼ごうとしてたわけ? 舐めてんの? だったら今すぐ辞めちまえよ! 才能がどうとか、環境がどうとかって話じゃねぇんだよ! お前らが『やる』って決めたんだろ?! だったら、命を燃やして最後までやり遂げやがれ!!」
タデウスは、手元にあった手頃な棒切れを容赦なく投げつけた。
「ヒィィィィィッ!!」
トーヴァが悲鳴を上げながら、頭上をかすめた棒切れから両手で頭をガードする。
どうやら、一切の妥協を許さない、芸術に対して狂気的なまでに真摯な人物であることは間違いなかった。
そして、ラルフはあえて言葉を交わさずとも、その明晰な頭脳ですべての因果関係を察知した。
どうやら、この芸術の巨匠は、近日設立される学校の「美術学科の教員」として正式に採用されたらしい。
そして、聖女姉妹は、自らの生き甲斐であり生業でもある『魔導的蒸留』のさらなる高み、未知なる領域を目指すため、この偉大なる(しかし常人には一ミリも理解できない)舞踏家の元へ弟子入りを志願したのだ。
再び視線を向けると、さらに苛烈さを増したレッスンが再開されていた。
「だから! 違うって言ってんだろ?! もっと指先を天に伸ばす! 爪先の角度一つすら疎かにするな! なんでそんな簡単なこともできねぇんだ? やっぱりお前ら、頭の中まで酒カスが詰まってんのかよっ?!!」
「うわぁぁぁぁん! もうヤダーー! この人、鬼だよ、悪魔だよぉぉお!!」
「お、お姉ちゃん! そんなこと言ったら、またセット数が増えちゃうってばぁぁ!!」
精神的にも肉体的にも、完全なる臨界点に達している聖女姉妹。
それを見届けたラルフは、そっとエリカの肩を叩いた。
「あ、あのさ。エリカ……。なるべく、その……静かに。近所迷惑にならない程度に、静かにな……?」
エリカは、鋭く横目をラルフに走らせただけだった。
そして、これ以上このカオスに関わっては、精神がもたない……。
そう確信したラルフは、現実逃避を決意し、そそくさと領主館の中へ避難を開始した。
しかし、勝手口の厚い木戸を閉めた向こう側から、またしても……。
――ドンドカドンドンドカドン! ドンドン!
という、エリカの無慈悲で正確無比なリズムが容赦なく響いてくるのだった。
「旦那様……。ちゃんと注意なさらないのですか?」
呆れたようにアンナが尋ねる。
「ん、うむ……。それよりアンナ。たまには息抜きも必要だ。二人で街へ出掛けようじゃないか。どうだろう? ヘンリエッタ・カフェで、居酒屋の仕込みが始まるまで、ゆっくりと今後の未来について語り合おうじゃないか……。うん、それがいい。そうしよう!」
ラルフは、さも「主従の絆を深めるための高尚な時間」であるかのような、もっともらしい大義名分を掲げて提案した。
要するに、ただの職務放棄である。
「……わかりました、お供いたします」
アンナはいつもと変わらぬ無表情のまま、しかし拒絶することなく快諾した。
「よし、決まりだ! さぁ行こう、今すぐ行こう!」
ラルフは背後から迫るすべての面倒くさい事象、義務、そして爆音の音頭から目を背けるように、アンナの細い手を取って歩き出す。
差し出された主人の手を握り返しながら、アンナは彼に見られないように、ほんの少しだけ、愛おしそうに、くすりと微笑んだ。