軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

447.少女は香辛料と海の女王

「カンパーイっ!」

「おおっ! 今日はコカトリスのカラアゲがあるじゃねーか?! やったぜ、引きが最高にいい!」

「いやー、ダンジョン帰りは、やっぱりキンキンに冷えたビールに限るぜ! ミンネちゃーん! こっち大ジョッキでおかわり!」

荒くれ者の冒険者や仕事帰りの職人たちがひしめき合う、居酒屋領主館。

熱気と油の匂い、そして爆発的な笑い声が渦巻くその「いつもの喧騒」の真ん中で、店主であるはずのラルフ・ドーソンは、完全に周囲の音をシャットアウトしていた。

彼が陣取っているのは、フロアの片隅にある実用本位の木製テーブルだ。

パチ、パチパチパチ、パチッ――。

驚異的な速度で弾かれる算盤の音が、リズミカルに店内の騒音を刻んでいく。

手元にある書類には、すでに細かな数字と修正の線がびっしりと書き込まれていた。ラルフの放つ特有の集中力は、一種の結界のように彼の周囲の空間を切り離している。客たちの怒号めいた歓声すら、今の彼の耳には届かない。

「……入学希望者は貴族をはじめとする、いわゆる特権階級が多数を占める。ならば、学食の初期設定単価をもう少し強気に引き上げても、客層的には問題ないか? いや、待てよ? レッドフォードに厳命している魔獣狩りの頻度を元のローテーションに戻せば……。おいおい、魔獣肉の仕入れ値は実質ゼロ、純然たる経費削減になるじゃないか?!」

ブツブツと、まるで呪詛か怪しげな取引の儀式のように呟きながら、ラルフの手は止まらない。算盤の木片が淀みなく、かつ正確にカチャカチャと弾かれ、新たな計算結果を導き出していく。

その時、ラルフの視界の端に、琥珀色の液体と白い泡がたっぷりと注がれたジョッキが滑り込んできた。

トン、と軽い音を立てて置かれたそれを見て、ラルフはハッと我に返り、ようやく顔を上げた。

言われてみれば、自分の手元にあったグラスはいつの間にか空っぽになり、底にわずかな泡を残すのみとなっていた。

「相変わらずだな。飲みながらでも、それだけ精緻な計算ができるとは、流石というべきか」

呆れたような、しかしどこか親しみのこもった声でビールを差し入れてくれたのは、ヴィヴィアン・カスターだった。

「いやいや。こんなの、今はまだざっくりとした試算だよ。シラフの時に、もう一度冷徹に精査し直すのさ。数字の魔物には、二重三重の罠があるからね」

ラルフは苦笑しながらガラスペンをインクスタンドに戻し、軽く肩を回した。

ヴィヴィアンはラルフの対面にある木製の椅子に、音もなく、しかし深く腰を下ろした。彼女の代名詞とも言える銀色の鋭い瞳が、じっとラルフの顔を射す。

「なぁ、ラルフ。……本当に、全学部に漏れなく学食を導入するつもりなのか?」

その問いかけには、単なる事業への興味以上の、どこか重い響きが含まれていた。

「当たり前だよ」

ラルフは一切の迷いなく即答し、差し出されたジョッキを掴んだ。

「"衣食足りて礼節を知る"――。とある思想家の言葉さ。せっかくこの高徳なる学び舎に通う生徒たちが、明日のパンに怯え、飢えに苦しむなんて事態は、僕の経営者としての、いや、一人の人間としての矜持が絶対に許さないね」

一気に言い切ると、ラルフは冷えたビールを喉を鳴らして呷った。喉を潤す炭酸の刺激が、酷使した脳に心地よく染み渡っていく。

「……そうか。確かに、いかにもラルフらしい、ブレない考え方だな……」

ヴィヴィアンはふっと視線を落とし、睫毛の影を落とした。

彼女の脳裏に、記憶の断片が鮮やかに蘇る。

あれは――、もう五年前のことになる。

隣国である共和国との間に勃発した戦争――後世において『魔導大戦』と称される、世界初の魔導兵器が投入されたあの泥沼の戦場に、ラルフもヴィヴィアンも、まだ若き学士でありながら駆り出されていた。

戦火が止み、疲弊と絶望を抱え、帰還する途上のことだ。

死に 体(てい) で、腹をすかせた敵国の捕虜たちや、通りすがりの荒廃した村々に住む貧しい人々に対して、ラルフは軍の規定を無視し、分け隔てなく食糧を施していた。

『おい、ラルフ! これ以上の勝手な振る舞いは隊列を乱す原因になる! 軍規違反だぞ!』

そう憤慨していたカーライル騎士爵の引きつった顔が思い出される。

だが、ラルフの持つ奇妙な説得力と行動力に感化された兵卒たちが、次々と彼の手伝いを始め、最終的に騎士爵は怒るのを通り越して呆れ果てていた。

そんな、仄暗く、どこか血と硝煙の匂いがする青春の最後の日々を、ヴィヴィアンは突如として思い出してしまったのだ。

切ない感傷に浸るヴィヴィアンを余所に、ラルフはジョッキをテーブルに置き、しみじみとした口調で続けた。

「ああ。人間、腹が減っていると、本当にロクな事にならないんだよ。惨めさなんて感情を通り越して、頭の奥からドス黒くて変な考えが際限なく湧いてくる。他者を憎み、世界を呪うようになる。そんな精神の状態はな、真の意味で不幸でしかないんだ……」

淡々と語るラルフだったが、ヴィヴィアンはその言葉の重みに、心の内で微かな違和感を覚えていた。

彼女自身は『テイマー』という、この世界において不遇職と蔑まれる立場を経験してきた。だからこそ、日々の食事にも事欠き、腹を空かせることの絶望や惨めさは、それこそ痛いほどに理解できる。

しかし、何故、大貴族である公爵家に生まれ、何不自由ない環境で育ったはずのラルフが、まるで――(自分自身も身を切るような飢えを経験したことがある)かのような、これほど切実な実感を込めた言葉を吐き出せるのだろうか?

ヴィヴィアンの疑問の視線に気づく風もなく、ラルフは「うーん」と唸りながら、再び書類へと視線を戻した。

「この、海運学科の学食をどうするかが、目下の最大の難問なんだよなぁ……」

先ほどまでの哲学的な空気は霧散し、ラルフは完全に抜け目のない「商売人」の顔を取り戻していた。手にしたペンの後ろ側で、書類の特定の一行をトントンとリズミカルにつつく。

「海運学科? 確か、アビエラ・グレイス号の改修のために建てられた、あの海岸沿いの仮設ドックを流用して校舎にすると聞いたが?」

「その通り。流石はヴィヴィアン、耳が早いね。だがね、あそこはここから少しばかり距離がありすぎるんだ。移動時間を考えると、現在うちと提携している屋台の店主たちにとっては、わざわざ出向くメリットが薄い。つまり、営業効率が悪すぎるんだよ」

ラルフは降参を意味するように両手を軽く上げ、白状した。

港にある海運学科の校舎まで、往復するだけでもかなりの時間をロスしてしまう。

それはすなわち、限られた昼時の営業時間が削られることを意味していた。飲食店オーナーたちを誘致しようにも、彼らにとってはあまり旨味のない、割に合わない話になってしまっていたのだ。

「まあ、仕方ない。ここだけでも、学園の直営として現地の専属スタッフを新しく雇うしか……」

ラルフが半ば諦めかけ、予算の再計算を始めようとした、まさにその瞬間だった。

「フッフッフッフッフ! 天が呼ぶ、地が呼ぶ、人が呼ぶ! ――至高のカレーを作れと、あたしを呼ぶ……っ!」

居酒屋の喧騒を強引に切り裂くように、不敵で、かつ出所がまったくもって謎な高笑いと口上が店内に鳴り響いた。

「誰だ?! いや、声の主は完全にわかってるけど……様式美として、あえて言わせてもらうが……どこのどいつだ?!!」

ラルフは椅子の脚をガタつかせ、勢いよく振り返った。

そこには、案の定というべきか、誇らしげに腕を組み、尋常ならざる自信に満ちあふれた態度で直立している金髪ドリルツインテールの少女がいた。

この界隈で『スパイス・クイーン』の異名を持つ、エリカである。

しかし、いつもと決定的に違うのは、彼女の背後に並び立つ、その「お供」たちの存在だった。

どう見ても一般の平民ではない。

仕立ての良いドレスを身に纏い、洗練された、しかしどこか好戦的なオーラを放つ、貴族令嬢とおぼしき五人の少女たちが一列に並んでいる。

ラルフの脳内の危険察知アラートが、最大音量で鳴り響いた。またしても、自分の処理許容量を超えるわけのわからない事態が始まろうとしている、という確信めいた予感があった。

「フッフッフッ。驚くのはまだ早いわよ、ラルフ。彼女たちはね、あたしの崇高なスパイスの思想に深く共鳴し、あたしを慕って付いてきてくれた、王都の由緒正しきご令嬢たちよ。さあ、みんな! この哀れな迷える経営者に、格好良く自己紹介しなさいな!」

エリカがバッと振り返り、鋭い手振りと共に促す。すると、背後の令嬢たちが息の合った動きで一歩前に出た。

「私は、メラニー!」

「私は、ベビー!!」

「シンシアと申しますわ!」

「ヴィクトーリアよ!」

「メラニーです!」

エリカの苛烈な教育に悪い方向で影響を受けてしまったのだろう。彼女たちは一様に、不遜であり、かつ過剰なまでの自信に満ち溢れた笑みを浮かべ、流れるようなメンバー紹介を繰り広げた。

その怒涛の勢いに耐えかね、ラルフは頭を抱えて捲し立てた。

「いきなり新キャラクターを五人も一気に増やすなよ! こっちの脳内メモリがパンクして面倒くせえことこの上ねえわ! ……っていうか、おい! 今、メラニーって名前が二人いなかったか?! 気のせいか?! いや、確かに二人いたよな?! まあ、ファーストネームが被ることくらい現実的によくある話だけど……それにしても構成が雑だろっ!!」

ハァ、ハァ……と息を切らすラルフを完全に無視し、五人の令嬢たちはさらなるアクションへと移行する。

「……私たち。エリカさんの大いなる志を支える、親衛隊――その名も……」

息をぴったりと合わせた彼女たちは、一糸乱れぬ動きでそれぞれのポーズをビシッと決めた。

「「「「「スパイス・ガールズ!!」」」」」

その刹那、ラルフの脳裏には、彼女たちの背後に雄大な富士山の裾野と、派手な爆破の煙が見えたような気がした。どこぞの東洋の島国で大人気の「なんとか戦隊」を彷彿とさせる、あまりにも完璧で様式美に満ちた決めポーズである。

押し寄せる過剰な情報量の多さに、ラルフは激しい眩暈を覚えた。

それにしても――その、グループ名……。

思わずこめかみを押さえ、全力のツッコミを投げかける。

「大丈夫なのか?! 色んな意味で、そのグループ名は本当に大丈夫なのかぁぁぁぁ?! 大人の事情とか、どこぞの異世界の国際的な権利関係とかに引っかかって、すっごい怒られちゃうなんてことないかっ?!」

「何をさっきから訳の分からないことを心配してるのか知らないけれど……」

エリカはふん! と鼻で笑うと、その薄い胸を堂々と張ってみせた。

「とにかく、その難航しているっていう海運学科の学食、あたしたち『スパイス・ガールズ』に丸ごと任せなさいな!」

「はあ~? 任せろって言われてもな……。というか、彼女たちも王都の貴族なんだろ? そんなお偉い令嬢たちが、学食で働くなんて、本当に大丈夫なのか? 家の方から苦情が来ないか?」

ラルフの至極真っ当な懸念に対し、エリカはふっと表情を和らげ、しかし力強い眼差しを令嬢たちに向けた。

「大丈夫に決まっているじゃない。彼女たちはね、王都にいたところで、どうせ親たちの政略結婚の道具、都合の良い駒として退屈な生涯を終えるだけの日々に絶望していたのよ。そんな定められた退屈に甘んじるくらいなら、泥を被ってでも、自分の足でこの世界に立ちたいって願う、とびきり骨のある連中なんだから!」

エリカの言葉は熱かった。

しかし、前世の記憶を持ち、この異世界において『資本主義経済』という巨大な怪物をぶん回す尖兵として君臨している自覚があるラルフにとって、その言葉は耳が痛いどころか、何とも言えない奇妙な罪悪感すら呼び起こすものだった。

(自由を求めた結果が、僕の経済圏での過酷な労働階級への参入っていうのも、なんだか皮肉な話だな……)

だが、とラルフは思考を切り替える。

港、海、そして潮風。

――確かに、あそこにはカレーライスという料理が、これ以上ないほど劇的に似合うかもしれない。

何故なら、ラルフの前世の記憶によれば(諸説あるものの)、庶民の味として爆発的に普及したあのカレーライスは、はるか昔、横浜に駐留していた、イギリス海軍の発祥であるという強力な一説があったからだ。

海の男たちの食糧として発展した歴史があるならば、海運学科との親和性は抜群のはずである。

「なるほど、港にカレー、か。悪くない……悪くないが……」

ラルフは顎に手を当てて呟いた。

しかし、同時に、彼女たちのあまりにも濃すぎるキャラクター性と、エリカという爆弾を抱えたこの集団が、またしても自分の制御不能な大騒動を引き起こすのではないか? という、気が気でない予感に襲われる。

居酒屋領主館の喧騒の中、ラルフはこれから始まるであろう新たなスパイスの嵐を予感し、深く、深い溜息を一つ、吐き出すのだった。