作品タイトル不明
445.Re:ゼロからはじまる芸術論
かくして、様々な思惑と前衛的なカオスを孕んだまま、ロートシュタイン領における学校創設計画は、一足先に『美術学科』だけが文字通りのスタンドプレーで先行する形で、奇跡的な『試行開校』の日を迎えることとなった。
アート・オークション会場を突貫工事で拡張した仮設の学び舎。真新しい木材と塗料の匂いが微かに残る教室に、突如として、どこか哀愁を帯びた、しかしあまりにも規則正しい鐘の音が木霊した。
キーンコーンカーンコーン♪
キーンコーンカーンコーン♪
それは、世界を揺るがす大魔導士であり、この領地の主であるラルフが、なぜか異常なまでの執念を燃やして職人たちに再現させた、前世の記憶に眠る「学校のチャイム」の音であった。異世界の住人たちにとっては未知の旋律であったが、ラルフにとってはこれこそが学舎の魂であり、絶対に譲れないこだわりの一品だったのだ。
チャイムの余韻が教室に溶けていく中、教壇のすぐ前の席に陣取っていたラルフが、突如として朗々と声を張り上げた。
「――起立! 礼! ちゃくせーーーき!」
規律の行き届いた軍隊さながらの野太い号令。それに合わせて、教室内の一見バラバラな受講生たちが、驚くほど一糸乱れぬ完璧な所作で一斉に立ち上がり、深く頭を下げて席に戻る。ガタタッと椅子が鳴る音すら調和していた。
「……え、ええっ!? う、うわあぁ……っ! どういう、こと……?」
そのあまりの圧力と統率力に気圧され、教壇の上にちょこんと立っていたベルは、小さな身体をビクッと震わせて本気で怖気づいてしまった。
そう、何を隠そう、この記念すべき美術学科の初代教員として教壇に迎えられたのは、十歳を超えたばかりの少女・ベルその人であった。
そもそもこの計画は、ベルの規格外な絵の才能をより広い世界へ羽ばたかせ、彼女の未来を豊かにするための「学びの場」として発案されたはずだった。それが、大富豪パトロンの暴走や宮廷画家の弟子入り志願といった数々のカオスを経て、気がつけばベル自身が最高位の「教員」の椅子に収まってしまっている。本末転倒という言葉すら生ぬるい、客観的に見れば訳の分からない事態なのだが、ラルフの「まあ、面白いからいいか」というノリだけでこの茶番めいた授業はスタートしていた。
「ふむふむ! 懐かしいなぁ、この独特の張り詰めた空気感! なんだか、何十年も前に失った若さを今ここで取り戻したかのような、実に新鮮な気分だぞ!」
ラルフのすぐ隣の机に腰掛け、少年のように目を輝かせているのは、変装もそこそこに一般生徒になりきっている国王陛下その人であった。
未だ見ぬ「普通の学園生活」というシチュエーションに、彼のテンションは朝から最高潮に達している。
生まれながらにして王家を背負い、長男として常に衆人環視の中で育ってきた彼にとって、机を並べて授業を受けるというごくありふれた青春の光景は、歴史物語の中の絵空事よりも遥かに憧れる、極上のエンターテインメントだったのかもしれない。
当然ながら、国王もラルフも、ここではただの「生徒役」でしかない。
周囲を見渡せば、聖教国から遥々やってきた絵画を愛する純朴な少年少女たちや、ここロートシュタイン領の孤児院から"賑やかし"として動員された子供たちが席を埋め、この壮大なるモデルケースという名の茶番劇に付き合わされていた。
そして教室の後方には、王国や共和国の重鎮たち、さらには今回の最大の出資者であるロジオン・ヴァールといった「教育機関への投資=社会貢献」という現代的な美徳に目覚めたスポンサーたちが、授業参観の保護者よろしく、我が子の成長を見守るかのような温かい微笑みを浮かべて立ち見している。
そんな、歴史的な第一歩とも言える厳かな空気の中。
ラルフはといえば、机の上に立てかけた分厚い教科書を完璧な衝立として利用し、その死角でガツガツと、猛烈な勢いで『特売シャケ弁当』を貪り食っていた。
教壇からの視線を完全に遮断しているつもりなのだろうが、幼いながらも教員としての責任感に燃えるベルの視点から見れば――。
「え? ええぇ……? あ、あの、その……ラルフ様……?」
丸見えであった。
隠す気の薄いその大胆な奇行に、ベルはただただオロオロと戸惑い、授業を進めていいものか判断に迷う。
すると、ラルフは鮭の身を咀嚼しながら、事もあろうに教壇のベルを諭すように小声で囁きかけた。
「モグモグ……。おい、何やってんだよベル。こういう時、本物の『先生』ならさ、不真面目な生徒に向かってチョークをシュンッ! って音速で投げつけるか、さもなくば『こらラルフ! 授業中に早弁してんじゃねー!』って怒鳴り散らすのが様式美だろ!?」
なぜか被害妄想混じりの理不尽なダメ出しを食らうベル。しかし、ラルフがその言葉を言い終えるよりも早く――。
スパコーーーーンッッ!!!
と、教室中に小気味よい破壊音が炸裂した。
強烈な衝撃と共に、ラルフの頭部へと正確無比に振り下ろされたのは、どこからどう見ても紙製の巨大なハリセンだった。
「ぶふぇっ!?」と情けない声を上げて机に突っ伏すラルフ。その背後に音もなく佇んでいたのは、いつの間にか出欠簿を片手に配置についていたメイドのアンナだった。彼女は完全に無表情のまま、ラルフが抱えていたシャケ弁当を、流れるような無駄のない所作で没収していく。
「授業中の間食は厳禁でございます、旦那様。……ベル先生、どうぞお続けください」
「あ、は、はい……! では……その、まずは、絵の基本である『デッサン』から始めたいと思います」
未だに目の前で行われた主従のコントのような状況を飲み込めていないベルだったが、なんとか気を取り直して授業の開始を告げた。
「ふふふっ、待っていましたわ! ベル先生の、あの神の領域にある筆さばき……余すことなくこのあたくしのモノにしてみせるわよ〜ん!」
生徒席の一角から、異様な熱気を含んだ声が上がった。
席を窮屈そうに使っているのは、生徒役として潜り込んだ現役の宮廷画家・ペパロニである。彼はベルのシャケ弁当の絵に叩きのめされて以来、完全な狂信的弟子と化しており、その卓越した筆遣いを一滴たりとも見落とさないと言わんばかりに、らんらんと両目を血走らせてスケッチブックを睨みつけていた。
「では、まずは『静物』……つまり、動かない簡単なモノから描いてみましょう。……まずは、この、林檎です」
ベルは小さな手で、教壇の真ん中へと、真っ赤に熟れた瑞々しい林檎をコトリと置いた。
「やっぱりさ、何事もこういう退屈な『基礎』が一番大事なんだよな。魔法の構築と全く一緒だわ」
頭をさすりながら、ラルフがぽつりと、しかし深い実感を込めて呟く。
彼もこの世界に転生して二十数年、日々の退屈を紛らわせるために魔法の研鑽を重ねた結果、気がつけば世界最高峰の『大魔導士』の称号を得るに至っていた。その彼が到達した真理もまた、基礎の徹底的な反復。アートも魔法も、根底にある本質は同じなのだと、前世の知識と現世の経験を照らし合わせて納得していた。
「最初に、ただ単に、こうして炭で『丸』を描きます。これが、この林檎の全体のフォルムになります……」
ベルはそう言いながら、真っ白なキャンバスの中央へ、迷いのない手つきで黒い綺麗な円を描いた。
「ふむふむ……なるほどなるほど。まずは全体の輪郭を捉える、これぞ基礎の基礎ね! これくらいなら、王都の最先端を走るこのあたくしでも、完璧に理解できてよー!」
ペパロニは余裕綽々の笑みを浮かべ、手元の紙へ美しい円を真似て描き出す。周囲の子供たちも、ふむふむと頷きながら思い思いの丸を描き始めた。
しかし、ここからが「天才」の領域だった。
「そしたら、次は……この林檎を実際にガブッと齧った時の、甘酸っぱい美味しさを頭の中でいっぱいに想像しながらですね? 手元をこう、サラサラサラ〜っと、流れるように描いていくと、……はい、こうなります」
「そうはならんやろぉぉぉっっっ!!!」
静まり返った教室に、ラルフの魂からのツッコミが盛大に響き渡った。
ベルがほんの数秒、まるで魔法の杖を振るかのように炭をキャンバスの上で滑らせた、ただそれだけだった。しかし次の瞬間、そこにはモノトーンの炭の線でありながら、皮の絶妙な光沢、滴るような果汁の瑞々しさ、そして今にも甘い香りが漂ってきそうな「本物以上の林檎」が忽然と出現していた。
キャンバスの中に、ただただ美味しそうな林檎の絵がある。
何をどう省略し、どう線を重ねたのか、見ている側にはさっぱり分からない。
プロであるはずのペパロニすら、開いた口が塞がらずに固まっている。
やはり、ベルの画才は天性の、教えることのできない規格外の代物なのだ。その超感覚的な再現性を、他者に求めるのはあまりにも酷というものだった。
しかし、当のベルは、周囲の人間がなぜ驚いているのかが全く理解できない。
「あ、あのー……? これ、本当に『美味しそうだなぁ』とか、『早く食べてみたいなぁ』って、心から強く願いながら描けば、誰だって簡単に描けると思うんですけど……」
オロオロと戸惑いながら、不思議そうに生徒役の面々をたしなめるベル。
「あのなー、ベル先生……。その『強く願うだけで描ける』っていうのが普通はできないから、学校っていう組織が存在してるの! 天才の無自覚って本当に罪深いわ!」
ラルフはすべてを察し、これ以上の論理的な授業は不可能だと悟って、ガックリと机に頬杖をついた。
「で、でも……っ! 絵って、本当に凄いんですよ! 今、目の前にある物だけじゃなくて、それがこれからどんな風に変化していくかも、自分の頭の中にあるワクワクする想像を、言葉を使わずに誰かに見せることができるんです! だから、私は本当に、絵を描くのって凄いことだと思うんです……っ!」
ベルは小さな拳を握りしめ、拙い言葉遣いながらも、自身の魂の底にある「美術」という概念の魅力を、必死に皆へと伝えようと言葉を紡ぐ。
「……なあ、ベル。やっぱりさ、お前が特別なんだって。その純粋な情熱も含めてさ……。まあ、でも、お前が楽しそうなら、この学校を作った意味も、もしかしたらこれで。大正解だったのかもな……」
ラルフの唇から、諦めと、それ以上の深い慈愛を孕んだ苦笑が漏れた。ベルの才能も、その純粋さも、すべてがこの世界の規格に収まらないほどの逸材。彼女がこうして教える側に回ったことも、運命の悪戯としては悪くないのかもしれない。
しかし。
幼い彼女の胸中には、今や「教員」としての奇妙な使命感と、スズから事前に叩き込まれていた『ある知識』が、最悪の化学反応を起こして宿っていた。
絵という美術の基礎、その言葉を超えた感動を人々に発信したいという、魂のジョブに完全目覚めてしまった彼女は、慈愛に満ち溢れた聖女のような微笑みを浮かべ、両手を大きく広げて言い放ったのだ。
「――皆さん、誰だって最初から上手く描けない、そんな苦しい時はあります!
でも、描きたいという想いさえあれば、必ず描けます!
いくら失敗したって、何度だってやり直せばいいんです!
そう……。
一から……いいえ、……ゼロからっ!!」
光の演出すら見えそうなほどドラマチックに、感動的なワンシーンを演出するベル。
しかし、
そのセリフの元ネタを完璧に理解してしまったラルフは、頭を抱えて叫ばざるを得なかった。
「おいこらぁぁぁ!! 偉大なるライトノベル作品の歴史的名シーンをこんなところでオマージュするんじゃねえぇぇ!! 向こうのファンに怒られるわ! 何が『ゼロから』だ、感動のワンシーンを茶番に使うなこんちくしょう!!!」
ラルフの大声の喚き声が、新校舎の天井を揺らす。
その大騒ぎの教室の扉の隙間から、様子を窺うように中を覗き込んでいた人物が一人。
前日、不安がるベルの相談に乗り、「こういう時はね、こういう風に言うとみんな感動するよ!」と悪魔の知恵を吹き込んだ張本人――スズであった。
彼女はラルフの期待通りの絶叫ツッコミを耳にすると、計画通りと言わんばかりにニヤリと邪悪なまでに愉快な微笑みを浮かべ、足音を立てずにそそくさとその場から立ち去っていくのだった。